CHAPTER 01

原点 ── イギリスで出会った「デンツー」という響き

日本の魅力を世界に発信したい──。横山さんが電通の門を叩いた動機は、学生時代のある偶然の出会いに遡る。

早稲田大学政治経済学部政治学科に在籍していた横山さんは、学生時代にたまたまイギリスを訪れていた。そこで、現地で開催されていた「ジャパンフェスティバル」に行き当たる。

そのやっているところはどこかというふうに聞いたら、株式会社デンツーというところをやっているよというふうに聞いて、そこでデンツーというのが、一つそこで頭の中に残ったということですね。

政治学科の学生でありながら、横山さんの関心は経済でも政治権力でもなく、「文化外交」にあった。

私は学生時代から非常に文化外交というものに興味がありまして、日本の持っている、例えばお茶の文化ですとか、あるいは日本の庭とかですね、そういったものは全世界に実は発信できるんじゃないかということを学生時代から思っていた。

そのとき念頭にあったのは、フランスのルイ・ヴィトンやシャネルだった。商品の中にフランスの文化が色濃く現れ、それが世界に魅力を提供している──。日本の文化にも同じ力があるはずだ、という確信を、横山さんは学生時代から抱いていた。

CHAPTER 02

電通 20 年 ── 名古屋の下積みから、官民連携の最前線へ

1992 年に電通に入社した横山さんが最初に配属されたのは、名古屋支社だった。中日新聞の担当を皮切りに営業を経験し、その途中で一度、体を壊す。そこから海外マーケティングの畑に転じた。

愛知や名古屋の魅力を世界に伝えたり、名古屋の企業で海外に売り出すスポンサーさんのお手伝いをさせていただいて。

10 年間の名古屋での下積みを経て、2002 年に東京本社へ。もともと「日本の魅力を世界に発信したい」という思いで入社した横山さんは、本社で日本政府の官民連携プロジェクトを担当することになる。

ちょうどそのころ、小泉内閣で外務大臣を務めていた町村信孝が、外交における「ソフトパワー」の重要性を打ち出し始めていた。ハーバード大学のジョセフ・ナイ教授が提唱した「ソフトパワー」を、日本の外交にどう組み込むか──その議論が始まったのが、横山さんが東京本社に異動した直後だった。

2004 年ぐらいから始まって、その時はパブリックディプロマシーという言葉でですね、広報文化外交と訳すわけですけども、学生時代に思っていた、そういう勉強していたことを、電通の中で実践することができた。

学生時代に抱いた問題意識を、国家プロジェクトの現場で実践する。横山さんにとって、これが電通というキャリアの最先端だった。

CHAPTER 03

なぜフランスは、日本文化と相性がいいのか

横山さんが官民連携プロジェクトで手応えを感じていたのが、フランスという国の存在だった。

フランスという国が日本の文化っていうのを非常にリスペクトしておりました。

象徴的な人物として、横山さんはジャック・シラク大統領の名を挙げた。大相撲を愛し、幾度となく来日したことで知られるシラクだが、この日本文化への傾倒は、実は 19 世紀にまで遡る現象だという。

1900 年代の初め、まだいわゆる徳川幕府の終わりの頃に、日本はフランスの万国博覧会に出展してたんですね。そこに浮世絵ですとか、そういったもので、日本に対する魅力ってものがすごく増えて、実は今のアニメに繋がっている。

いわゆる「ジャポニスム」である。ポッと出のブームではなく、19 世紀の段階からヨーロッパの美術や生活文化に影響を与え続けてきた──横山さんは、このロングスパンの日仏関係を踏まえたうえで、現代のアニメや J-POP ブームを語る。

対話のなかで、金子もこの日本趣味の広がりに言葉を継いだ。19 世紀末から 20 世紀初頭にかけて西欧で上演された喜歌劇「ミカド」、1900 年のパリ万博で人気を博した女優・川上貞奴、そしてオペラ「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」──日本を題材にした舞台芸術が、当時のヨーロッパで次々と生まれていたことを指摘した場面である。浮世絵などの美術品だけでなく、演劇やオペラの世界にまで日本趣味が波及していたことが、二人の対話のなかで確認された。

市場が日本だけでやってるとどうしても非常にサイズが小さいんですけれども、初めからアーティストを売り出す時には、全世界をターゲットにしながら売り出していく。そうすることによって、日本文化っていうものが需要されることによって、日本の総合的なパワーというものも増してきた。

CHAPTER 04

知られざる「庭園のジャポニスム」との出会い

横山さんが庭園史を本格的に学び始めたのは、意外にもごく最近のことだった。

昨年の夏の研究課題として、基礎(自邸)と庭園文化を横山庭園の関係で勉強しだして、慶応大学の教授の鈴木先生の『園芸のジャポニスム』っていう本に出会った。

400 ページ近くに及ぶこの本は、19 世紀末のパリに現れた日本人庭師・畑和助を軸に、庭園を通じたジャポニスムの広がりを描いた研究書である。フランスの貴族の間で日本庭園ブームが起き、それが一般庶民へと広まっていった経緯が、そこには記されていた。

埋もれた歴史が、ここで今、明らかになってきて。

実は庭園も、万国博覧会でフランスに紹介された歴史を持つ。日本政府が日本庭園を模した「東屋(あずまや)」を出展していたことが、近年の研究で明らかになってきているという。フランスでは現在、日本庭園協会が設立され、2022 年には日本ヨーロッパ庭園協会も発足した。

それぐらい実は、今、ヨーロッパで日本庭園ブームが非常に起きております。

学生時代から文化外交を志し、電通で広報文化外交を実践してきた横山さんにとって、この庭園というテーマは、20 年来の関心と、実家の庭という個人的な事情が、ちょうど交差する場所だった。

CHAPTER 05

転機 ── 東日本大震災が、大学教員への道を開いた

華やかな広告業界から、なぜ大学教員へと転じたのか。そのきっかけは、2011 年の東日本大震災だった。

今まで私がやってきた官民連携の政府のプロジェクトっていうのは、結構価値があるんじゃないかって思って、これをぜひ若い人たちに継承していきたい。

横山さんは 2005 年から、電通の社員をしながら名古屋外国語大学で広告論を教えており、2008 年には客員教授に就任していた。そんな折、大学に新設される国際教養学科への着任オファーが舞い込む。

私の授業が非常に面白いという声が学内であって、ぜひそれを若い方たちに伝えてほしいと。

実務一辺倒の 20 年から、研究・調査・教育という、まったく異なる領域への転身。横山さんは高校時代から「ガリベンの横山」と呼ばれるほど勉強好きだったが、それでも大学教員としての基礎体力は、着任後にゼロから積み上げる必要があった。名古屋外大の先輩にあたる政治学者・高瀬先生から、こう釘を刺されたという。

ただ単に実務だけお話ししても、2、3 年で終わっちゃうぞ。

2012 年から 1 年間、授業を持たずに原書を読み込む時間を確保し、専門知識を体系立てていった。

CHAPTER 06

実践を、体系化する ── 『地域プロデュース入門』ができるまで

大学教員としての基礎を固める過程で、横山さんはゼミの恩師・吉野隆先生からも重要な助言を受けた。

研究畑ではないけど、今までやってきた実践を体系化しなさいと。理論化するのはなかなか難しいんだけれども、今までやってきたことを体系化したらどうかと。

こうして生まれたのが、2015 年刊行の『地域プロデュース入門 元気な地域はこうして創る』である。横山さんが定義する地域プロデュースは、学問的な裏付けを持たない、あくまで実践から導き出した方法論だと本人は語る。

私の地域プロデュースって、学問的な裏付けはないんですけど、実践で言うと、定義をすると、地域の魅力を作り、広げ、そしてそれで動かすという、作って、広げて、動かしていく。その 3 つのプロセスがあると思うんですけれども。

まず「作る」の段階でやるべきことは、地域資源を探すことだ。ただし、それを見つける主体は地元の人間であってはならない、と横山さんは言う。

皆さんが、実は地域の皆さんが普通に毎日見てるものでも、東京や名古屋の都会から来た人にとっては非常に価値があるんですね。

森や林、川──日頃そうした自然に触れていない都会の人間ほど、出張先でリラックスを覚える。ところが、それを毎日見ている地元の人にとっては、価値だと思えない。

だから、まずその地域資源を特定するときに、自分たちだけじゃなくて、外部の人たちにまず見てもらうっていうことですね。それが第一です。

次に「広げる」段階。SNS での発信も有効だが、横山さんが重視するのはそこではない。

第二に、広げるときには……SNS でインスタグラムですとか、TikTok とか、そういうのがあるのでいいんですけども、やはりブランドを作っていくという意味においては、マスメディアですね。特に新聞とかテレビで議題設定機能というのが、大学生のときに習ったわけですけれども、それが一つの議題になると、それによって皆さんが、これはこの地域の資源というのは素晴らしいんだっていうことを客観化させてくれる。

新聞やテレビが取り上げること自体が、地域資源に「これは価値がある」という客観的なお墨付きを与える──マスメディアの議題設定機能を、いわば地域の"権威付け"として使う発想である。

それを今度は磨き上げて、人に知らしていく。それが地域プロデュースの要諦でありますので。まずやっぱり外部の人たちに自分たちの地域資源を見てもらうこと。そしてマスメディアによって権威付けをしていただく。それが成功へのまず第一歩だというふうに考えております。

この方法論を、横山さんは 2009 年・2010 年に名古屋で開催された COP10 のプロデュース業務で実践した。三重県菰野町の魅力を「里山」だと発信した際、地元の人々の反応は驚くほど鈍かったという。

これ、私毎日見てるんですよと。これが何でいいんですかって、皆さんがやっぱり言われるんです。

COP10 という国際的な公式行事に、テレビや新聞が多数取材に入った。その報道を通じて地域資源が客観化され、初めて地元の人々自身が「これがいいんだ」と気づいていく。外部の目で見つけ、マスメディアで権威付けし、地元に気づかせる──横山さんが実践してきた地域プロデュースの核心は、この一連の流れにある。

CHAPTER 07

自分の庭を、地域資源として「開く」

横山さんが培ってきたこの手法を、最後に自らの実家に適用することになる。

菰野横山邸園は、1968 年に横山家の祖父・秀吉が重森三玲に依頼して作庭させた枯山水の名庭である。重森は東福寺や岸和田城の庭でも知られる、昭和を代表する作庭家だった。本来この邸園を継ぐべきは、医師として財を成した横山さんの兄だった。しかし、兄が蕎麦アレルギーを知らずに邸園に宿泊し、命に関わる事態を招いたことがきっかけとなり、次第に足が遠のいてしまう。

私どもが 1564 年、いわゆる永禄 7 年なんですけれども、織田信長の……もともと北畠の家臣だったもんですから。

戦国時代、伊勢国司・北畠氏に仕えた家系にまで遡る横山家。当代 14 代目にあたる横山さんが、父から邸園を託されたとき、それまで観光資源として一般に開かれることのなかったこの庭を、開放することを決めた。

私が一応地域プロデュースのプロとして、父からこれを任されると言ったときに、観光のスポットとして、今まであまり見せてなかったけど、開きますよということで。

2018 年頃から電通時代のマーケティング手法を用いた維持管理を開始し、2020 年には地元の菰野町観光協会と組んでツアーを開始。湯の山温泉のホテルと連携した「庭懐石」イベントも企画したが、当初は苦戦した。転機になったのは、中日新聞の記事だった。

2 月、3 月でキャンセル待ちがものすごい出て……これはもしかしたら、庭と新聞というのは、読者層というのは相性がいいんじゃないかっていう話に中日新聞がなりまして。

2024 年 11 月からは、中日新聞で中部地方の庭園を紹介する月刊特集「ザ・ガーデン 庭」がスタート。この地域には今、庭園ブームが起きているという。

このお庭ブームまで仕掛けられました。

対談の中で金子は、横山さんをそう評した。実家の枯山水の庭を観光資源として開放し、地元の観光協会・ホテル・新聞社を巻き込みながら、一つの庭を地域ぐるみの「ブーム」にまで育て上げる。お庭ブームの仕掛け人──それが、地域プロデューサーとしての横山さんに与えられた、もう一つの顔である。

横山さんの構想は、菰野横山邸園一つにとどまらない。三重県内の 7 つの庭園──北畠氏館跡庭園(日本三大武将庭園の一つ)、津・高田本山の庭園、桑名の六華苑など──を結び、「伊勢國お庭街道」というプロジェクトを立ち上げた。かつての江戸時代、庭寺巡りとともに賑わったお伊勢参りの復路を、令和の時代に再現しようという試みである。

このプロジェクトは、国土交通省が 2019 年に創設した「ガーデン・ツーリズム」制度に、昨年 4 月に登録された。

これは国交省が 2019 年に作った制度でございまして、要はその地域地域にある日本庭園やあるいは欧米系の庭園でもいいんですけれども、そういったものをつなげて、そして食と温泉とか、そういうものとつなげて計画を作ってほしいと。それを計画を作ったものを、国交省が認定し登録をしていくっていう制度で。

全国で 19 県ほどが登録するこの制度に、三重県の「伊勢國お庭街道」に続いて、愛知県も「サムライガーデン」として登録される見込みだという(収録時点で登録は翌月に予定)。

横山さんが見据えるのは、さらに広い枠組みだ。富山・石川・福井・長野・岐阜・静岡・愛知・三重・滋賀の中部 9 県を貫く、国主導の広域観光ルート「昇龍道プロジェクト」との連携である。能登半島を龍の頭に見立てて命名されたこのルートは、もともと中華圏からのインバウンド誘致を主眼に据えて名付けられたものだ。

それをなんとか、庭園街道とか、あるいはセントラルジャパン・ガーデンルートみたいな、そんな感じで面として売り出していけば……この地域は実は侍の庭園ということでもブランディングできますし。

石川の兼六園、福井の一乗谷朝倉氏庭園、名古屋城二の丸庭園や徳川園。三重の武将庭園と合わせれば、「侍の庭園」という統一したブランドで、中部一帯を面として売り出せる──横山さんはそう語る。

なんとか、この中部 9 県で挽回していくということが、今、私、プロデューサーとしての……これはかなり自分が亡くなるまでやろうと思っている。

VOICES

名言

地域の皆さんが普通に毎日見てるものでも、東京や名古屋の都会から来た人にとっては非常に価値がある。
埋もれた歴史が、ここで今、明らかになってきて。
私が一応地域プロデュースのプロとして、父からこれを任されると言ったときに、観光のスポットとして、開きますよということで。
これはかなり、自分が亡くなるまでやろうと思っている。

VOICE BEHIND THE VOICE

横山さんの原音

対話の中で、ふと口にした言葉。
編集部が聴き取った、その人の核にある原音。

デンツーという響きが、頭に残った

そこでデンツーというのが、一つそこで頭の中に残ったということですね。

──横山さんが電通に惹かれたきっかけは、就職活動の合理的な選択ではなく、イギリスで偶然出会った「ジャパンフェスティバル」の一言だった。文化外交への関心は、その前から学生時代に抱いていたものであり、企業名との出会いはあくまで結果でしかない。思想が先にあり、その受け皿として組織を見つける──このパターンは、その後の大学教員への転身にも、実家の庭園継承にも、繰り返し現れることになる。

「私、毎日見てるんですよ」という壁

これ、私毎日見てるんですよと。これが何でいいんですかって、皆さんがやっぱり言われるんです。

──COP10 で三重県菰野町の里山の価値を伝えようとした際、横山さんが直面したのは、地元住民の無関心だった。当たり前になったものは、価値として認識されない。これは地域プロデュースの現場で繰り返し起きる壁であり、後に横山さん自身が、実家の庭園という「当たり前」の存在に同じ壁を見出すことになる。理論として体系化していたことを、最も個人的な場所で追体験した瞬間だった。

蕎麦アレルギーが変えた、家の継承

もともと兄が菰野に泊まる度に蕎麦アレルギーがあることを知らずに、蕎麦を枕元で寝てて、何度か死にかけたもんですから。結局、菰野に寄りつかなくなっちゃった。

──14 代続く旧家の継承は、通常であれば医師として財を成した兄に委ねられるはずだった。しかし、思いがけない偶然が、その道筋を変える。継承とは、必ずしも計画通りには進まない。横山さんが地域プロデュースの専門知識を携えて当主となったのは、皮肉にも、こうした偶発的な事情の積み重ねの結果だった。

CLOSING

あの日の、一言

落ち込んでばっかりいずに、元気になりなさい

── 梅原 猛(哲学者)の言葉より

哲学者の梅原猛氏──横山さんの中学の先輩にあたる人物から受け取った言葉が、横山さんを長く支えてきた。

東海学園大学のシンポジウムをプロデュースしていた際、たまたま梅原氏と同席する機会があった。当時の横山さんは、長期にわたって体調を崩していた時期だった。

梅原猛先生は、海部俊樹さんとか、あるいは黒川紀章さんって、東海の先輩なわけですけど、彼らも実はそういうときはあったと。だけど、そういうときこそ元気にして、来たるべき時に備えて、一生懸命勉強しておけば、必ずそういうタイミングが来たときに元気になるから、落ち込んでばっかりいずに元気になりなさいと。

体調がすぐれないときこそ、元気な姿を見せる。この教えを、横山さんは今も守り続けている。

去年、自分は実は心臓の病気をしたんですけれども、それでも元気にいろいろやっているのは、その教えをひたすら守っているということが言えるかなと思います。

もっとも、横山さんはこの言葉を無条件の空元気として語ったわけではない。

自分の命にかかることによって、空元気がしませんので。ここがちゃんとダメなときは、ダメだとちゃんと言います。検査はしっかり受けましょう。

そして対談の最後、横山さんが語ったのは「最後の夢」だった。2033 年、伊勢神宮では 20 年に一度の式年遷宮が控えている。

昔、日本の江戸時代は 6 人に 1 人、つまり 3000 万人の 6 人に 1 人だって、500 万人ぐらいですね。実は伊勢にみんな行ってたわけですね、江戸時代。これを何とか復活したいなと思ったので。

江戸時代、6 人に 1 人という規模でお伊勢参りが行われていた、その賑わいを取り戻したい。ただし 2033 年には、まだ間に合わないだろうと横山さんは冷静に見積もる。

2033 年にはちょっとまだ間に合わないと思うので、その次の 2053 年、自分が 85 歳の時ですけども。この時に何とかインバウンドも含めて、6 人に 1 人というものを達成したいと思うんで、それまでは絶対死ぬわけにいかないので。

何が何でも、江戸時代のような賑わいを取り戻す。この野心を実現してから、菰野にある自分の墓に入りたい──85 歳になる自分自身がその目標に立ち会うまでは、絶対に死ぬわけにはいかない。梅原氏から受け取った「体調が悪いときこそ、元気にしていなさい」という言葉は、この遠大な夢を支える土台として、今も横山さんの中で生き続けている。