原点 ── モデルから「喋る人」へ、熊本から東京へ
キャスターになろうと思ったのは、高校生の頃からだったという。
生まれた時から。高校の時ぐらいからやりたかったんですけど、まあ何せ熊本なので。
ただし東京でやれるとは思っていなかった。そこで最初に選んだのは、形から入る道だった。大学在学中に近畿日本ツーリストの沖縄キャンペーンガールを経験し、その後福岡のモデル事務所に通いながら週末だけ仕事をこなす日々が始まった。
しかし、モデルの世界には早々に自分の限界を感じた。
綺麗な人いっぱいいらっしゃるし、私なんかちょっともう無理だなって途中で思ったので。
「喋る方、少し自分の言葉で喋れる仕事をしたい」──そう決めて、九州地方のローカル番組でレポーターを始めた。そして学生時代に FM の音楽番組の DJ も経験した。
卒業と同時に、玉利さんは決断する。一年発起して、親を説得し、東京へ出た。就職でも何でもない、キャスターになるための単身上京だった。
1 年間だけやらせてくださいって言って、親を説得して東京にもう出てきちゃったんです。
3 月 3 日、たまたま門を叩いた事務所から紹介されたフジテレビのレポート番組のオーディションを受けた。翌日が締め切りだった。それが通った。半年後、テレビ朝日の大型番組のキャスターオーディションを受け、これも通った。
タイミングがありますよね。熊本ブームだったっていうことと、フレッシュな、全然出ていない初めての人が欲しかったとか。
運と準備と、「行動した」という事実。それが玉利さんの東京での出発点だった。
「やじうまワイド」── 朝の 3 時半起き、7 年半の現場
テレビ朝日「やじうまワイド」は、5 時半から 8 時半までの 3 時間生放送だった。
新聞各社・スポーツ紙のニュースをテレビで読み上げる、当時としては斬新な試みだった。最初は新聞社から「人の褌で相撲を取っている」と反発を受けたが、やがて新聞の売上増に貢献することが証明され、受け入れられていった。
玉利さんは芸能ニュース担当として 5 時半から担当し、7 時から再び合流する形で出演した。
生放送の現場では、失敗もあった。ある日、一人で回す 30 分間のコーナーを、終了時刻の 2 分前に「さようなら」と締めてしまった。
2 分くらい前に終わっちゃったんですよ。カメラが寄ったり引いたり、音楽が大きくなったり、他の花を映したりとかして、何してるんだろうなと思って。
2 分は、生放送では永遠に近い。しかし玉利さんは、こうした修羅場を 7 年半続けた。体調が悪い日も、咳が止まらない日も、本番中に鼻血が出た日も、朝の 3 時半に迎えが来れば局へ向かった。
自分がちょっと咳してても、無理に行ってたりしたんですけど。
しかし、あるときプロデューサーに言われた。体調が悪い時は代わってもらうのがプロだ、と。
私やるのがプロだと思ってたから。それ私じゃなくてもいいんだと思いまして、番組を大切にしなきゃなと思った。
「自分がやることがプロ」から「番組を守ることがプロ」へ。現場でしか学べない一線だった。
「トゥナイト」── バブル前夜の深夜、ジュリアナの時代
「やじうまワイド」から 1 年空いて、玉利さんは深夜番組「トゥナイト」のキャスターになった。
朝の生放送から、深夜の生放送へ。収録入りは夜 9 時。4 つのコーナーがあり、CM 明けの時間が厳密に決まっているのに、VTR が 3 秒前に届くような綱渡りの毎日だった。
アクシデントが楽しめるっていう心境じゃないと。
ジュリアナ東京全盛のバブル末期。当時のテレビ朝日の六本木は、今では考えられないほどのエネルギーに満ちていた。ニュースステーションに久米さんがいて、玉利さんの番組があり、その後にプレステージという深夜番組があった。後に国会議員になる人たちが、この時期のテレビ朝日を出入りしていたと玉利さんは言う。
帰りはタクシー券が出る時代だったが、女性が手を挙げてもタクシーが捕まらないほど六本木は混んでいた。
おじさん、つまりスタッフが手を挙げてくれて、後ろに私がいてそれに乗るみたいな。
バブルの最前線を、まさに現場の一員として生きた 1 年間だった。
NHK ラジオ 19 年 ── 3,000 人と向き合って、学んだこと
テレビ朝日で活動しながら 28 歳頃から NHK のラジオも始め、以後 19 年間続いた。
「歌謡ジャーナル」は毎週 2 人の歌手をゲストに迎え、100 分で回す生放送。延べ 3,000 人以上にインタビューした。「歌謡スクランブル」「地球ラジオ」と番組は変わりながらも、NHK の世界は民放とは異なる空気を持っていた。
一言一句チェックされるので、そのあたりのところは、ちょっと民放と違う緊張感はありますし。
19 年間続けられた秘訣を問われると、玉利さんは少し考えて答えた。
嫌われないようにね。明るく嫌われないように。ゲストの方にも喜んでもらえるような対応というか、気の使い方をずっとしていました。
「自然体ではなかった」と言う。「めちゃくちゃ気を使っていた」と笑う。
印象に残るゲストも多い。郷ひろみさんは早めに来て、スタジオで二人きりになる時間があった。三波健一さんも同様に、じっと見てくる不思議なオーラがあった。コロッケさんとは番組の司会を一緒にやり、今でも六本木交差点でばったり会う縁が続いている。
縁がある人は縁がありますよね。お会いするっていう。
伝える、ということ ── ラジオと現場で磨いた「話し方の哲学」
玉利さんが語る「話し方」は、方法論ではなく、現場体験から蒸留されたものだ。
まず大切なのは、聴くこと。そのうえで「話す」となったとき、彼女が軸に置くのは「短い文で伝える」という一点だ。
1 分間の喋りっていうのを、3 つのポイントで頭の中で箇条書きにして。短く。
若い人は「で」「なんとかかんとかで」とつなげて話す傾向がある。長くつながると、途中で間違えたときに取り返しがつかなくなる。短い文で区切れば、都度立て直せる。
情景がわかるようなことを加えて話をしていく。
具体的に、見えるように。これはインタビュアーとしての経験からきた実感だ。3,000 人のゲストが語ることを受け取り続けた人間だからこそ、言葉が「刺さる」瞬間と「通り過ぎる」瞬間の違いが身体に染み込んでいる。
2021 年に出版した『失敗しないオンラインでの伝え方』も、この延長線上にある。コロナ禍で Zoom や Teams が急速に普及した時代に、「リアルとは違う方法でやらなきゃいけない」現実を書いた一冊だ。画角、明るさ、トーン、リアクション──対面では無意識に補われていたものが、画面越しでは全部意識的にやる必要がある。
しゃべり方としては本当に明るいトーンで、ちゃんと前を向いてニコニコしながら。とにかく笑顔と挨拶。それから相手への語りかけを常にしつつ、しゃべるっていうことが大事ですね。
基本はシンプルだが、それを一番難しい場面でも貫ける人は多くない。
六本木ヒルズで教える、次の世代へ
現在の玉利さんの拠点は、六本木ヒルズ。かつてテレビ朝日の旧社屋に通い、バブルのテレビ業界に生きた場所から数百メートルの距離に、ハリウッド大学院大学がある。
学校法人メイ牛山学園は、ハリウッド美容専門学校とハリウッド大学院大学を擁し、美容師を目指す専門学校生から、経営を学ぶ社会人まで幅広い学生が集まる。玉利さんはここで准教授として「ホスピタリティマネジメント論」を担当しながら、広報・キャリアセンター業務も担う。
高校生は 2 年間で、あっという間に綺麗になりますし、感性がやっぱりすごいですね。若い人のほうが、すごい変わります。
1 年で自分の見せ方が分かるようになる学生たちを見るのが、玉利さんには「うらやましい」と感じる時間でもある。
ホスピタリティとは「相手のことを思って行動すること」。理論だけでなく、美容サロンや教育現場での実践まで含めて教える 8 回の授業のなかに、玉利さん自身が現場で積み上げてきたコミュニケーションの哲学が注ぎ込まれている。
どっちかっていうと話し方が中心で、言葉の使い方とか、出し方とか、気の使い方とか。そういったことも半分ぐらいは、やっぱりコミュニケーションを高めるという、それの中で話す・伝えるっていう。
「六本木から足を洗えない女」と笑う玉利さん。その言葉には、この場所で生きてきた 30 年以上のすべてが詰まっている。
ワインという名の、もう一つの現場
玉利さんにはもう一つの顔がある。ワインエキスパートとしての顔だ。
父と弟がワイン業界にいたことで自然とワインに親しみ、ソムリエ資格を取得。現在も不定期でワイン会を主宰している。エンターテインメントができるバーやレストラン、ホテルで開催し、ワインの説明と料理と会話を組み合わせた場づくりを自らプロデュースする。
以前は BS 朝日でワインの番組「ワインの誘惑」も担当していた。楽天の三木谷浩史氏がスポンサーになったこともあり、ロマネ系のワインが並ぶ収録もあった。
ゲストをお呼びするんですね。例えば紗倉まなさん、茂木さんだとか、川島なお美さんとかとにかくワイン好きな方たちを。
「ストーリーをお話しするのは大事」と玉利さんは言う。ワインの背景を語ることで、同じ一本がより深く味わえる──それは「伝える力」の本質と、根っこが同じだ。
情景がわかるようなことを加えて話していく。
キャスターとして、DJ として、教育者として、ワインエキスパートとして。玉利さんの全ての仕事は、「言葉で場を作る」という一点に向かって重なっている。
VOICES
名言
嫌われないようにね。明るく嫌われないように。
アクシデントが楽しめるっていう心境じゃないと。
短い文で伝える。1 分間の喋りを、3 つのポイントで頭の中で箇条書きにして。
縁がある人は縁がありますよね。
VOICE BEHIND THE VOICE
玉利さんの原音
対話の中で、ふと口にした言葉。
編集部が聴き取った、その人の核にある原音。
番組を大切にする、ということ
私やるのがプロだと思ってたから。それ私じゃなくてもいいんだと思いまして、番組を大切にしなきゃなと思った。
──体調が悪くても休まないことが「プロ」だと信じていた玉利さんが、プロデューサーの一言で気づいた転換点。「自分が出ること」から「番組が続くこと」へ。これはアナウンサーという職業論にとどまらない。どんな現場でも、「自分の参加」と「仕事の成立」を混同しているうちは、まだ一皮剥けていない。玉利さんが 7 年半の現場で本当に学んだのは、技術ではなくこの一点だったのかもしれない。
短く、区切って、情景を見せる
短い文で伝える。情景がわかるようなことを加えて話をしていく。
──3,000 人にインタビューしてきた人間が「話し方」として一番大切にするのは、技術論ではなく「切る」という動作だった。長くつながった言葉は、間違えたとき取り戻せない。短く区切れば、都度立て直せる。伝えることとは、流暢に喋ることではなく、相手に映像を届けること。NHK で一言一句チェックされながら磨かれた感覚が、このシンプルな言葉に凝縮されている。
六本木から、離れない
六本木から足を洗えない女って言われて。
──テレビ朝日の旧社屋、バブルのスタジオ、タクシーが捕まらない交差点、そして今の六本木ヒルズ。玉利さんの 30 年以上のキャリアは、ほとんどすべてこの一帯で完結している。変わり続ける六本木を、定点観測してきた人間だからこそ語れることがある。場所への縁は、その人の人生の核と重なっていることが多い。玉利さんにとっての六本木は、単なる「仕事場」ではなく、彼女の時代観そのものだ。
CLOSING
明日への誓い
改めまして、明日への誓いということを、この番組のためにちょっと考えまして。今まで私、先のことをあまり考えたことなかったんですけれども、やっぱり今までお話してきたように、教育分野として一つ筋を作って、後進の指導に当たりたいというのはあります。高校生、中学生、もっと下の方たちも含めて、文化・教養・マナー、そして生き方、そういったことの指導で、グローバルに活躍する人材を育てるということを、メッセージにして今ちょっと新しい構想で考えていることがあります。
現在の仕事は、アナウンサーの仕事はとても楽しいですし、やめたわけではないのでやってはおりますが、他に学校としてホスピタリティとか話し方、あと美容の方のカラーとか、私ができる資格でいろんなお話やセミナーをさせていただきたいなと思っています。
それから趣味の分野では、エンターテインメントが大好きなんですね私、実は。教育はもちろんなんですけれども、今まで何度かコンサートを企画したりプロデュースしたり、また学校でもイベントの企画やファッションショーをやっていますので、仲間もたくさん増えてきました。そういったオリジナルのエンターテインメント、コンサートとか、できれば小さいミュージカルとか、そういうのをやっていきたいなと思っております。
日本を元気に、そして明るく楽しくするために、仕事はもちろんなんですけど、楽しいことを今後は突き進めていければなと思っています。
本日はありがとうございました。