CHAPTER 01

原点 ── 実演販売員から、メディアへの憧れ

ラジオ局の代表が、もともと「ガマの油売り」だったと聞いて、驚かない人は少ないだろう。

20 代の頃、佐藤さんは営業マンだった。仕事は実演販売。健康食品、フライパン、包丁──全国を回って売り歩いた。

言ったらガマの油売りみたいな感じでね。

笑いながら振り返るが、その業界からテレビショッピングに転身して大成功する先輩・同僚たちを目の当たりにしながら、佐藤さんはずっと「メディアの世界、いいな」と思っていた。会社は好きだった。辞める気もなかった。

人生が動いたのは、結婚し、子供が生まれてからだ。「自分はどういう生き方をしたいんだろう」──その問いに答えを出すために、会社を辞めた。

将来メディアの世界に行けたら嬉しい。けれどコネも繋がりも、何ひとつなかった。だからまずは、得意の営業を生かして「営業の代行」という仕事で独立した。

メディアへの道は、まだ見えていなかった。

CHAPTER 02

偶然の代打出演から、すべてが始まった

転機は、偶然の連鎖で訪れた。

保険業の先輩経営者が、関西の AM ラジオ局でレギュラー DJ になった。佐藤さんは「行きたい」と言って、収録現場の見学に出かけた。

その日、ゲストが急遽欠席した。代役として、見学に来ていた佐藤さんが抜擢される。

僕も興奮しながら喋ったら、たまたま評判が良かったらしくて。

純レギュラーではないものの、その後も「金魚のフン」のように出演を続けた。やがて AM 局のスポンサーが降り、番組は終わった。

そのとき、誰かに教えられた。「インターネットラジオ、というものがあるよ」と。

2010 年、佐藤さんはインターネットラジオに出演者として関わり始めた。スマートフォンもまだ普及しておらず、Wi-Fi も今のように身近ではない時代だ。「インターネットラジオ?」と多くの人が首をかしげた頃の話である。

翌 2011 年、相方となる岡田尚起氏とともに、「ゆめのたね」という自分たちの番組を始めた。

CHAPTER 03

最初のリスナーは、3 人。うち 2 人は本人たちだった

ラジオを始める。それは、当時としても十分に勇敢な選択だった。

初回の放送が、3 人だったんですよ。1 人が僕で、1 人が岡田くんで、結局リスナーさん 1 人やったんですね。

普通なら、その時点で終わる話だ。だが、佐藤さんと岡田氏は違った。

いや、僕らパイオニアやということでね。

放送を続けた。応援したい誰かの夢のために、語り続けた。「ゆめのたね」という番組名は、まさにそれを意味していた。

2013 年頃から、自分たちでラジオ局を運営したいという想いが固まり始め、2015 年、二人は ゆめのたね放送局 を立ち上げた。テーマは「ご縁・応援・貢献」。一般市民が主役になれるインターネットラジオ局──そのコンセプトは、最初の 3 人(うち 2 人は本人)から始まったのだった。

CHAPTER 04

「誰でもなれる、だけど誰でもなれない」

ゆめのたね放送局のパーソナリティは、現在 1,000 人を超える。最年少は中学生。最年長は──「年齢を言うなと釘を刺されている」と佐藤さんは笑う。

老若男女、経営者から主婦、フリーター、LGBTQ の方々まで、本当に多様な人たちが番組を持つ。月会費 13,750 円で、30 分枠を 1 ヶ月持てる。2 ヶ月のアカデミー研修を経てデビューする仕組みだ。

「誰でもパーソナリティになれるんですか?」──金子の問いに、佐藤さんはこう答えた。

誰でもなれるんだけど、誰でもなれない、っていうのがあって。

含みのある言葉だ。続けて、こう説明した。

社会的な方であれば、なれるんですよ。

「社会的」という、面白い表現。反社会的な人ではなく、社会のなかでまっとうに活動している人──そういう意味だ。放送のマナー、ルール、倫理観があるから。それさえあれば、年齢も職業も性別も問わない。

そして佐藤さんは、こうも言う。ガンダムのプラモデルが大好きで、「ニッパー」(部品を切る道具)の話で 30 分間ずっと喋るパーソナリティもいる。同じ趣味の人にとっては、たまらない。それでいいのだ。

CHAPTER 05

ラジオは、映えない。だから、盛れない

佐藤さんがラジオに賭ける理由は、メディアの本質を見据えた静かな確信に支えられている。

ラジオは、映えないし、盛れないんですよ。

AI 時代、画像も映像も、いくらでも作れる。彼自身、サーフィンが趣味なので動画をよく見るが、ある日「白鳥が波に乗っている」映像を見て不思議に思った。海に白鳥? AI 生成の映像だった。インスタ映え、盛れる、加工──視覚メディアは、嘘をつくのが容易すぎる。

しかしラジオは違う。

ラジオというのは、最もメディアの中で、なんかリアルに近いメディアだなって思っていて。

嬉しい、楽しい、感謝、最高──こうした感情がそのまま伝わる。佐藤さんは長年「感情が伝わるメディアがラジオだ」と言い続けてきた。AI 時代になり、その主張は、いっそう鋭さを増した。

アメリカではポッドキャストが日本以上に巨大な文化を形成している。音声を「聞く」人の数は、歴史上いま最も多いとも言われる。

なんかすごい、やっと来たな、って感じですかね。

実演販売員からインターネットラジオの代表へ。佐藤さんが信じてきたメディアの本質が、時代に追いついた瞬間だった。

CHAPTER 06

ステージ 5 ──「4 回、死んでください」

ゆめのたね放送局を立ち上げて 9 年。順調に成長していた頃、佐藤さんの体に異変が起き始めた。

サーフィンに行くと、すぐ息切れがする。10 キロ走れていたマラソンが、ちょっと走っただけでバテる。「年のせいかな」「呪われてるかも」と、相方にも冗談で話していた。複数の有名な医師に診てもらっても、原因不明だった。

2024 年 10 月、ついに突然倒れた。動けなくなって病院に運ばれ、関西で一番有名な病院でようやく病名が告げられる。

最重症 CTEPH ── 慢性血栓塞栓性肺高血圧症。日本の患者数は約 4,000 人と言われる難病。心臓と肺の間に、拳ほどの大きさの血の塊が詰まっていた。ステージ 5

すぐにやらないと致命的な症状ですよって言われて。

緊急手術。心臓を 1 時間止めなければ取れない、と医師は言った。

通常、脳みそって 4 分で死ぬじゃないですか。

体を冷却して脳機能を落とし、人工心肺すら止めて、15 分止めて、5 分回して、また 15 分止めて──を 4 回繰り返す。医師は励ますつもりで言ったのだろう。

簡単に言うと、4 回死んでくださいって言われてね。

普通なら鬱になりそうな会話を、佐藤さんは笑って受け止めていた。

先生、おもろいですね、みたいな。

人間は窮地に陥ると、防衛本能が働くのかもしれない。手術は成功した。死亡確率 10 数 % の手術を、彼は越えた。

ただし──サーフィンも、バンドも、もうできない。お医者さんは、そう言った。

CHAPTER 07

退屈は、苦痛より、しんどい ── 病室で見つけた、命の使い方

入院中、手も足も繋がれて動けない。何もできない。佐藤さんは、そこで一つの真実に出会った。

人間って、退屈と苦痛、どっちがしんどいかって言ったら──退屈、っていう話があるんですよ。本当かいな、と僕は思っていたんですけども、実際しんどい。こんなにしんどいかと思って。

動きたくて仕方なかった。そのとき、自分が「何をやりたいか」に気づいたのが、佐藤さんという人物の核心だった。

サーフィンではなかった。バンドでもなかった。

仕事したい、ってなったんですよ。

その瞬間に、彼は知った。自分は何気なく仕事をしてきたわけではなかったのだと。本当にやりたいことをやらせてもらっている

退院後、佐藤さんは医師の予測を裏切り、サーフィンもバンドも完全復活させた。けれど、それ以上に変わったのは、命に対する向き合い方だった。

病気的にね、僕の人生がいつまで続くか分からない。だったら 1 年を、10 年分の気持ちで生きよう、って今思って。

退院後すぐ、相方の岡田氏に電話をかけた。

「ゆめのたね、3 年で 47 都道府県、出そう」

岡田氏は、迷わなかった。「もちろん」と即答した。

これが「47 都道府県 夢の情報発信基地プロジェクト」の出発点である。難病からの生還が、佐藤さんを慎重にしたのではない。逆に、加速させたのだ。

VOICES

名言

誰でもなれるんだけど、誰でもなれない、っていうのがあって。
ラジオは、最もメディアの中で、なんかリアルに近いメディアだなって思っていて。
退屈と苦痛、どっちがしんどいかって言ったら──退屈。
1 年を、10 年分の気持ちで生きよう。

VOICE BEHIND THE VOICE

佐藤さんの原音

対話の中で、ふと口にした言葉。
編集部が聴き取った、その人の核にある原音。

1 年を、10 年分

病気的にね、僕の人生がいつまで続くか分からない。だったら、1 年を 10 年分の気持ちで生きよう、って今思って。

──最重症 CTEPH からの生還を語る場面で、佐藤さんが口にしたのは「生かされた感謝」ではなかった。「だったら、加速する」という、極めて行動的な決意だった。難病経験者の多くが「ゆっくり、慎重に」と語るところを、彼は逆を選ぶ。これが、ゆめのたね放送局が 9 年で 15 都市から、3 年で 47 都道府県へ一気に展開する原動力になっている。

退屈は、苦痛より、しんどい

仕事したい、ってなったんですよ。

──手も足も縛られた病室で、彼が一番やりたかったのは、サーフィンでもバンドでもなく、仕事だった。これは「仕事中毒」の話ではない。自分が天職に出会えていたことを、動けない状態で初めて確認した話である。多くの人は、忙しさのなかで自分が本当に好きなことを見失う。佐藤さんは、強制的に止められたことで、見つけた。

ラジオは、映えない

ラジオは、映えないし、盛れないんですよ。

──映え、加工、AI 生成。視覚メディアの嘘の作り方を、彼はよく知っている。だからこそ、嘘がつけないラジオに賭ける。音声は、その人の中にあるものしか出てこない。「感情が伝わるメディアがラジオだ」と長年言い続けてきた言葉は、AI 時代が到来して、ようやく時代に追いついた。佐藤さんは時代より、20 年早かった。

CLOSING

明日への誓い

ゆめのたね放送局は、2015 年の設立以来、「ご縁・応援・貢献」をテーマに、一般市民が主役になれる場を作ってきました。10 年で全国 15 都市、1,000 人のパーソナリティが、自分の人生を声で語る場を持つようになりました。

しかし、私たちが目指すゴールは、ここではありません。

3 年で 47 都道府県、1 万人のラジオ DJ。これが「47 都道府県 夢の情報発信基地プロジェクト」です。年齢、性別、肩書きなど関係なく、誰もが自分の夢を、自分の人生を、自分の趣味を、誇りを、そして仲間や好きなことを、自分の言葉で語れる社会。これを、私は本気で実現します。

2024 年、私は最重症の CTEPH と診断され、心臓を約 1 時間停止させる大手術を受けました。何度死を覚悟したか分かりません。しかし、生き返って私が決めたのは、「1 年を、10 年分の気持ちで生きる」ということでした。

明日への誓いとして、私はこれからも声を通じて、人と人をつないでいきます。当たり前の中にある奇跡を、一人でも多くの方々と分かち合い続ける経営をしていきます。

それが、私にとって命を使い切る、ということなのです。