この回は、アメリカとの時差 16 時間のオンライン収録だった。
出発点は、才能の発見ではなかった。自分は全然自発的でなく、積極的な子どもでもなかった、と本人が言う。最初は何をやりたいのかもほとんど分からない状態だった。
ただし、物を作ることは好きだった。妹の誕生日プレゼントは全部手作りしていた。
小学校の中学年のころ、図工の授業でヘチマの絵を描いた。それを見た両親が何か気になったらしく、絵の教室に行ってみたら、と勧める。言われるがまま通い始めた。
もっとも、通っていたのは年配の人ばかりで、面白くもなかった。かといって行きたくないという反発もなく、淡々と通っていた。
本人の中では、はっきり分かれていた。立体は好きだが、平面は苦手である。手芸、編み物、洋服作り、そして大工仕事が好きだった。今も工房の棚やろくろの台は自分で作る。
高校生のとき、また両親の勧めで陶芸教室に通った。1 年半ほどである。教室そのものは面白いと思わなかったが、陶芸は面白かった。
意匠、という選択
進路の選び方が意外だった。理数系で、数学や物理が得意、国語が苦手。そして美大にはまったく興味がなかった。
当時のイメージがこうだった。アートは自分勝手に物を作る仕事で、デザインは人の役に立つもの。
両親からは工学、建築、音響学、そして意匠、という提案が来た。その中で一番自分に近く感じたのが意匠、つまりデザインだった。それで東京造形大学のデザイン科に進む。
反抗期でもあったので、これをやりなさいと言われたら絶対に嫌だと言っていたはずである。うまく誘導してくれたことには感謝している、と語られた。
大学では、デザインとは何かを学んだ。物と物、物と人、物と空間。いろいろな関わり合いがあるということである。
就職先は三重県の小さな家具メーカーだった。デザインの担当として入ったが、会社が小さいので何でもやった。そこで社長と副社長から教えられたのが、この一言である。
すべてのこと、あらゆることはデザインにつながるんですよっていうことを教えられて
社会人として成長させてもらった、という実感がある。
1 年半後、東京支社へ転勤になった。今度は営業だった。
これが全くできなかった。家具を売り込み、輸入雑貨も扱う。何をしていいか分からないちんぷんかんぷんの状態で、少し鬱っぽくなった。これはまずい、と思った。
そこで、自分に何ができるのかを真剣に考える。
私ができる仕事っていうのは、手で何かを作るっていうことが私にできることだ。
三重にいたころ、職人の仕事に興味を持って、同世代の女性の染色家にインタビューしたこともあった。そして高校時代の陶芸教室で土をいじっていた楽しさが思い出された。
陶芸なら仕事としてやっていけるだろう。そう決心して会社を辞めた。売上の計算をして独立したわけではない。作ることしか道はない、という感覚だった。
家具職人も一度は思い浮かんだ。ただ、力仕事であり、大きな機械も要る。作って売れるだろうか、と考えて難しいと判断した。
特徴がないのが、特徴
辞めてからの 1 年が、この人らしい。
図書館で本を借りて、陶芸とは何か、焼き物とは何かを勉強する。近くのスーパーでパートをして資金を貯めながら、気になった産地を巡った。
近い笠間から、益子、備前、萩、そして九州の唐津と有田。焼き物の歴史は古く、産地ごとに気風も仕事の環境も全く違うことを肌で感じた。
選んだのは笠間だった。理由は、自由で開かれていたからである。
笠間は特徴がないのが特徴っていうふうに書かれている。
当時のガイドブックにそうあった。備前なら備前の土を使う、萩なら萩焼、と結びついている産地とは対照的である。笠間では、作家がおよそ 200 人、窯元が 5、6 軒あり、それぞれが粘土を選び、釉薬を作り、独自のスタイルでやっていた。
自分に何ができるのかがまだ分からないから、まず始めてから自分のスタイルを決めたい。だから自由な場所を選んだ。
さらに、個人作家ではなく窯元を選んだ理由も明快だった。個人作家につけば、その人の個性をそのまま引き継ぐことになる。窯元なら数人で働き、まとまった数を生産し、販路も広い。ベーシックにいろいろ学べる。
窯業指導所(現在の茨城県陶芸大学校)などで情報を集め、大津晃窯を訪ねた。求人もあったという。
入門に試験はない。話をするだけである。ただ、そこで焼き物という仕事の性質を初めて知った。
焼き物は生き物のようなものだという。焼成には 1 日以上かかり、窯につきっきりになる。粘土の乾燥具合も世話がいる。だから大津晃窯では、敷地内に研修生の部屋を用意し、トイレや風呂は共同という半住み込みの形をとっていた。1 日中、粘土のことを考えられるようにするためである。
師匠は、手取り足取りは教えない。最初の少しのやり方だけ教わって、あとは見て真似して、ひたすら練習する。
一番の仕事は、陶芸教室の面倒を見ることだった。体験に来た人の作品を、新聞紙をかけてゆっくり乾かし、焼き上げ、発送するまで研修生と先生で全部やる。加えて、朝 8 時から 5 時までは店で売る品物を作る。
自分の時間は、その外にあった。ろくろを練習し、釉薬を研究する。原料は自由に使わせてもらえたので、テストピースを作って窯の隅に入れておく。
そして、自分のオリジナルの釉薬を一つ見つけた。それなら独立できるかもしれない、と先生に相談した。4 年が経っていた。
灰が、降りかかる
釉薬とは何か、という素朴な質問にも丁寧な答えが返ってきた。
木の灰である。
昔は登り窯や穴窯で、山の斜面を削って穴を掘り、薪を焚いて器を焼いた。すると木の灰が器に降りかかり、その部分が溶ける。それを昔の人が発見した。
そこから、灰に粘土を混ぜて作品に乗りやすくしたり、ガラスの成分を足したりと、長い年月をかけて研究されていった。今は合成土灰、合成藁灰、石灰といった原料が陶芸材料店で手に入る。こだわる人は山に入って木を切り、燃やすところからやる。木が持っている成分によって色が変わるからである。
温度の話も具体的だった。土には陶土と磁土がある。有田のような磁器は 1300℃ ほどの高温で焼く。陶土はそこまで上げると崩れてしまうので、もっと低い。佐野さんの場合は 1240℃ から 1250℃ のあいだである。
しかも、温度が上がれば焼けるというものではない。焼き上げるまでの時間も大きく効く。釉薬もその温度で溶けやすくなるように調合する。
抽象から、遺跡へ
独立後は食器も作ったが、力を入れたのは陶器のランプや時計といったインテリアだった。デザインを学んだことと無関係ではない。
明かりは人気が出た。何個も作って売れ、自信もついた。ただし、毎年のイベントでは新作を出すよう心がけていたので、4 年ほど経つとアイデアが尽きてきた。
そこで、今もお世話になっているというギャラリーからプロデュースを受ける。助言は明快だった。抽象的なものから、具象的なものを作ってみたらどうか。
それで、遺跡をモチーフにした明かりを作り始めた。雰囲気ががらりと変わった。
本人の中には迷いもあった。美術というものを頭に置いていなかったから、こんなので、自分勝手に物を作っていいのだろうか、と。それでも、やってみたことがないからやってみよう、と踏み出した。遺跡も建築も、もともと好きだった。
ギャラリー Ari は世田谷代田にあり、土日のみ開いている。器よりもアートをメインに飾っていて、イベントには持っていけない大きな作品も置かれている。
慣れると、売れない
最後に、陶芸とは何かと問われた。
作られるものは自分自身なので、自分。
それを裏づける経験が語られた。
いいデザインができて、コップを 30 個ほど作る。よく売れる。それならまた作ろう、と次を作る。ところが、その次に作ったものは実際あまり売れない。手が慣れてしまうからである。
慣れてしまって心が入ってない。
イベントで見ていると、客は同じように作られたコップを右手と左手に持って、たった一つを真剣に選ぶ。そこに違いが出る。最初の一個は緊張する。削るときも、模様を入れるときも。
お客さんはそれを見抜いている、と信じている、と佐野さんは言った。
そして、こう付け加えた。
でもどんな仕事もそうかなと思います。真剣にやる。当たり前ですけど。
VOICES
名言
すべてのこと、あらゆることはデザインにつながるんですよっていうことを教えられて
笠間は特徴がないのが特徴っていうふうに書かれている。
作られるものは自分自身なので、自分。
でもどんな仕事もそうかなと思います。真剣にやる。当たり前ですけど。
VOICE BEHIND THE VOICE
佐野さんの原音
対話の中で、ふと口にした言葉。
編集部が聴き取った、その人の核にある原音。
慣れた手を、客は見抜く
作られるものは自分自身なので、自分。
──陶芸とは何か、と問われての答えである。抽象的に聞こえるが、根拠は具体的な売れ行きにあった。
いいデザインができてコップを 30 個ほど作ると、よく売れる。それならまた作ろう、と次を作る。ところが、その次はあまり売れない。手が慣れてしまうからである。慣れてしまって心が入っていない、と本人は言う。
イベントでは、客が同じように作られたコップを右手と左手に持って、たった一つを真剣に選ぶ。そこに違いが出る。最初の一個は緊張する。削るときも、模様を入れるときも。お客さんはそれを見抜いていると信じている、と語られた。そのうえで、どんな仕事もそうかなと思います、と付け加えている。
特徴がないのが、特徴
笠間は特徴がないのが特徴っていうふうに書かれている。
──会社を辞めてからの 1 年、図書館で焼き物を勉強し、スーパーでパートをして資金を貯めながら産地を巡った。笠間、益子、備前、萩、唐津、有田。産地ごとに気風も仕事の環境も全く違った。
備前なら備前の土、萩なら萩焼、と結びついている産地に対して、当時のガイドブックが笠間についてこう書いていた。作家がおよそ 200 人、窯元が 5、6 軒あり、それぞれが粘土を選び、釉薬を作り、独自のスタイルでやっている。
選んだ理由が、その自由さだった。自分に何ができるのかがまだ分からないから、まず始めてから自分のスタイルを決めたい。さらに、個人作家ではなく窯元を選んだのも同じ理由による。個人作家につけばその人の個性をそのまま引き継いでしまう。窯元ならベーシックにいろいろ学べる。修業は 4 年。自分のオリジナルの釉薬を一つ見つけたところで、独立を相談した。
CLOSING
明日への誓い
自分は何者なのだろうか。私にできること、私の生きる役割は。という問いをしばしば考える。
私の持っているものを最大限に発揮すること。それは私の夢でもあり、役割でもあると考えている。私はセラミックアーティストとして、その役割を果たしたい。
まず自分を知ること。自分で自分を見ることはとても難しい。友達や人と会って話すことは、私を映し出してくれる。また、違った環境に身を置いてみることでも気づきがある。私は頭の中で物事を考えるより、体験して納得することが好きである。
今までは、気になったことや提案されたことをまずやってみた。新しい世界に触れ、自分自身の新しい発見もあった。ただ、50 歳目前、特に体力的にできなくなってきていることも痛感している。これからはどうすれば私の本質、技術を最大限に発揮できるか、選択してそぎ落としていく時期と考える。そして核となるものを探求し、膨らませていきたい。それから、直感もとても大事にしている。
また、ここまで生きてこられたことを振り返ると、あれもこれもが今に繋がっている。最近は繋がりということを意識している。
海外、特にアメリカに行くことが増え、世界と、そして日本を感じて認識する機会に恵まれた。今考えていることは、私は日本人で、私の思う和を伝えること。和や日本の美意識については勉強中で、今後もずっと考えることになると思う。
私の手から作られるものは私である。自分を高め、その時の自分を発揮したい。私の生まれ持っているもの、培ってきた技術、経験でいいものを作る。そうすれば誰かに、何かに繋がっていくのだろうと信じています。
本日はありがとうございました。