非常階段の向こうから聞こえた、一本の音
岡さんの物語は、医療福祉の話ではなく、音楽の話から始まる。
もともと日本帰ってきたタイミングですごくアメリカの音楽とかに惚れ込んで帰ってきて。アメリカの音楽、ヒップホップとかラップミュージックとかテクノとかハウスとか、いろんなジャンルの音楽がまみれてるので。
3 歳から 11 歳までをサンフランシスコで過ごした岡さんは、帰国後その熱をそのまま持ち帰った。高校の頃からアルバイト代でDJ機材を買い集め、大学時代には路上ライブを始める。そこに、後の人生を決定づける出会いが待っていた。
民族衣装やターバンを売る店に通っていたある日、店員が「休憩に行ってきます」と長い棒を持って非常階段へ消えていく姿を見た。思わず追いかけ、非常階段の扉を覗くと、低く唸るような音が聞こえてきた。
その非常階段ガチャって覗いたら、ブイーって音が聞こえて。なんすかそれって言って。これ楽器だよみたいな感じで。あまりにも惚れてしまって、その場でもうその笛を買って。
それが、オーストラリア先住民の管楽器・ディジュリドゥとの出会いだった。店員だったその人物に弟子入りし、二人で路上ライブを始める。ディジュリドゥを吹きながら人が集まり、知らない者同士がその場でセッションを始め、友達になっていく。「セッション」という言葉は、この後の岡さんの人生全体を貫くキーワードになっていく。
祖父の認知症が、音楽療法という扉を開けた
音楽で生きていく――そう決めかけていたタイミングで、岡さんの家族に変化が起きる。
僕のおじいちゃんですね、が認知症になって。その認知症を音楽で治すというか、なんかできないかなというのがあって。調べると音楽療法っていう世界があるということを知って。
当時 20 代でサラリーマンを 3 年ほど続けていた岡さんは、会社を辞めて音楽療法の専門学校に入り直す。授業の一環で、障害児施設や高齢者施設に実習として通うようになったことが、福祉の世界との最初の接点になった。
それがなんか面白いなと思って。そこから自分でアルバイトも福祉業界で始めて、障害児支援とか高齢者介護のバイトを始めた。
音楽を「治療」の手段として学ぼうとした青年は、そのまま現場の面白さに引き込まれていく。訪問介護員、障害児移動支援従事者として 6、7 年、岡さんは現場に立ち続けた。
うぶとべ ── 笛の音が、NPO法人の名前になった
現場経験を積みながら、岡さんは 2010 年、29 歳でNPO法人「Ubdobe(ウブドベ)」を設立する。この名前の由来もまた、音楽から来ている。
ディジュリドゥの音から来ているみたいな感じで。うぶとべ。うぶとべって聞こえますよね。
ディジュリドゥの倍音が「うぶとべ」と聞こえたことから、そのままNPO法人の名前になった。介護や障害児支援の現場もまた、人と人が即興でつながっていく「セッション」なのだ、という発想がそこにはある。
Ubdobeが掲げたのは、「医療福祉エンターテインメント」というテーマだった。
社会的に、周りから見たときに福祉業界ってすごく暗くて、大変そうなイメージが多いと思うんですけど、実際、中で働いてみたときにすごい楽しかったですよ、シンプルに。この楽しさを伝えるにはどうしたらいいかなって思ったときに、もともとやってたそういうイベントと、福祉の業界をくっつけて。
医療福祉をテーマにしたクラブイベント、謎解きイベント、ボードゲーム開発、そして若い世代が全国の福祉事業所を訪ね歩く「福祉留学」制度。岡さんはNPOという枠の中で、次々と型破りな企画を仕掛けていった。
一人の女の子の涙が、株式会社デジリハを生んだ
Ubdobeでの活動を続けるなかで、岡さんの目の前に、一つの決定的な出来事が起こる。筋ジストロフィーでリハビリを必要としていた、職員の子どものリハビリ動画を見せてもらったときのことだった。
泣いてたんですよね、その動画の中で、その女の子が。僕は普通に自分の友人の子なので、なんたることだと。これがリハビリなんだみたいなことを言われたんで、もっと楽しくできる手段はないかなと思っていたんですよね。
ちょうどその直前、Ubdobeはデジタルアートを使った子どもの遊び場づくりの仕事を手がけていた。その技術を、小さなリハビリ室に持ち込めないか――そこから「デジリハ」の開発が始まる。
この大きなデジタルアートの空間を小さな病室、リハビリ室の中に組み込めるようなシステムを作ったら、この子のリハビリが楽しくなるんじゃないかという発想で、アプリを作ったり、センサーのシステムを作ったりし始めて。
2017 年、岡さんはこの構想を日本財団のソーシャルイノベーター制度に応募する。グランプリには 1 億 5,000 万円の助成金がついていた。応募は通り、そのまとまった資金をもとに、デジリハの基盤となるプラットフォームが一気に形になっていった。
いざ本当にやっぱり日本財団もソーシャルインパクトを最大化したいので、作って終わりじゃダメなんですよね。それをいかに広めるか。僕らはスタートアップという形で、日本中世界中に広めますっていう宣言をして、分社化して販売開始した。
2021 年、40 歳。NPO法人Ubdobeから分社化する形で、株式会社デジリハが誕生した。
40施設から300施設へ ── 数値化という賭け
デジリハの核にあるのは、「遊びながら、いつの間にかリハビリが終わっている」という体験設計だ。
僕らは医療福祉教育介護の現場に、デジタルのリハビリに使えるツールを開発して提供しております。センサーとかを使ってリハビリをやる人の体の動きを検知して、それを使ってアプリケーションで遊ぶ。遊んでたらいつの間にかリハビリの時間が終わってるみたいな、そんな感じのシステムを作ってます。
もう一つの柱が、これまで医療福祉の現場にほとんど存在しなかった「数値化」である。指の角度、握り込みの強さ、リーチできた距離、クリアまでの秒数――センサーとアプリの両方から取得したデータを、1 か月前と比較できる形で可視化する。
やっぱり医療でも福祉でもあんまり可視化されなかったので、本当にその子に合っているものなのかとか、機能が維持できているかとかが分からなかったんですけど、それをやっぱり可視化した方が本人にとっても保護者にとっても支援職員にとってもいいよねということで。
導入数は、この 1 年半で劇的に伸びた。
実はこの40というのがちょっと古い数字で。今300施設まで急成長になってます。本当に1年半くらい前までは50施設くらいだったんで。
この急成長を支えているのが、特別支援学校に対する思い切った戦略だ。デジリハは病院などからは月額で費用を得ているが、特別支援学校だけは全アプリを無償で開放している。
特別支援学校だけは無償化していて全公開してるんですよ。もう社長の一言で。ある日突然メンバー集めて、明日から学校を無償にしますって言って。
背景にあるのは、データ戦略である。障害種別を問わず多様な子どもが集まる特別支援学校は、将来的に「この障害の子は、このリハビリをこの時期に行うとこう伸びる」という予測モデルを構築するための、貴重なデータの集積地になる。目先の収益より、データの量を優先する――岡さんはその判断を、迷いなく実行に移した。
目の前のたった一人と、世界24億人
デジリハはすでにアメリカに現地法人を持ち、アジア・ヨーロッパ・アメリカでの視察や海外展開の模索を進めている。その先に岡さんが見ているのは、途方もない数字だ。
これはWHOが発表してるんですけど、リハビリが必要な状態の人というのが世界中に24億人いると言われているんですよ。
けれど岡さんは、この数字を営業ターゲットとしては見ていない、と明言する。
いきなり24億人みたいなことではなくて、本当にたった一人の、僕らがデジリハを始めたきっかけのその女の子のように、目の前の一人が最高に楽しいとか、またやりたいって思えるデジリハ体験みたいなのを作れないと広まらないので。目の前の一人をずっと意識しながらも、可能性として世界を見続ける、両方の視点でいなきゃな。
一人の女の子の涙から始まったプロジェクトが、世界規模の課題と地続きになっている。岡さんが繰り返し語る「目の前のたった一人」という視点は、スケールを追い求めるスタートアップの語りにありがちな抽象論から、この会社を遠ざけているように見える。
失敗しかない、それでも前へ
300 施設という数字だけを見れば、順風満帆な成功譚に思える。しかし岡さん自身は、その道のりをまったく違う言葉で振り返る。
失敗しかないですね。チャレンジしないと失敗しないからね。本当に失敗の数は負けないぞっていうぐらい失敗いろいろしてるので。全然成功っていうのがむしろ分からないというか、ずっと失敗し続けてちょっとずつ良くなったなぐらいの感覚でしかない。
300 施設という規模になった今も、その感覚は変わらないという。
300施設って多いようで、実際全部の施設からすると全然足りなかったりするので。どんどん広めていかないといけないなっていうのと、その過程で今後もいっぱい失敗があるだろうなという感覚ですね。
それでも岡さんの語り口に湿っぽさはない。
多分楽観主義者なんで。失敗してもいいって思ってるというか、失敗しないといけないと思ってるので。失敗してこそ明日があるぐらいの感じですかね。
この楽観の根っこには、高校時代に母親からもらった、ある一言があった。それは番組最後のコーナーで、改めて語られることになる。
VOICES
名言
遊んでたらいつの間にかリハビリの時間が終わってるみたいな、そんな感じのシステムを作ってます。
何者にもならなくていいって言われて。
失敗しかないですね。
目の前の一人をずっと意識しながらも、可能性として世界を見続ける。
VOICE BEHIND THE VOICE
岡さんの原音
対話の中で、ふと口にした言葉。
編集部が聴き取った、その人の核にある原音。
非常階段の向こうの音
その非常階段ガチャって覗いたら、ブイーって音が聞こえて。あまりにも惚れてしまって、その場でもうその笛を買って。
──岡さんのキャリアの起点は、経営戦略でも使命感でもなく、非常階段の踊り場で聞こえた一本の音だった。見知らぬ店員を追いかけ、笛を買い、弟子入りする。この衝動的な好奇心の動かし方は、後にNPO法人の名前にも、300 施設という規模の事業にも、形を変えて生き続けている。始まりが「セッション」だった人間は、きっと最後まで「セッション」でしか動けないのだろう。
鎖を外した、母の一言
何者にもならなくていいって言われて。あんたは自由に生きてなさいって言われたんですよ。
──進路に迷う高校生に、母は即答でそう告げた。優秀な兄や父と比べられることに縛られていた岡さんは、その一言で「鎖を外された」と振り返る。民族楽器を買い込み、路上ライブに明け暮れた青年期も、NPOから株式会社への大胆な分社化も、すべてはこの一言から連なる自由の延長線上にある。比較からの解放が、挑戦への免罪符になった。
無償にする、という賭け
特別支援学校だけは無償化していて全公開してるんですよ。もう社長の一言で。
──収益を最優先にするなら、あり得ない決断だ。しかし岡さんは、データという長期的な資産を選んだ。40 施設だったデジリハが、わずか 1 年半で 300 施設に急成長した背景には、この「儲けを手放す判断」があった。目先の数字より、集まる情報の量。ここにも、路上でセッションを重ねながら仲間を増やしていった、あの頃の岡さんの発想が息づいている。
CLOSING
あの日の、一言
何者にもならなくていい。あんたは自由に生きてなさい。
── 岡 勇樹さんが高校時代に母親から受け取った一言
収録の終盤、これまでの人生を支えてきた一言を、改めて岡さんに尋ねた。
高校時代、進路や進学に迷っていた岡さんは、母にこう尋ねたという。「どういう感じになってほしいの」。返ってきたのは、即答だった。
何者にもならなくていいって言われて。あんたは自由に生きてなさいって言われたんですよ。
兄も父も優秀だった。その比較にとらわれなくていいのだと分かった瞬間、岡さんは「バーンってなって」、民族楽器を買い込み、路上ライブを始める。すべてはそこから始まった。
本当好きなことだけを続けてきたら、今こういうスタートアップとNPOをやらせてもらってる状態になったんで。何者にもならなくていいっていう鎖を外された結果、自分で企業できたみたいな感じですね。
デジリハが目指す先は、まだ道半ばだ。国内では 1,500 校ある特別支援学校のシェアをさらに広げ、放課後等デイサービスや病院への展開も加速させる。そしてその先には、施設だけでなく、自宅で高齢者や家族が使えるB2C版の構想もある。
とにかく日本中にまずはどこにでもあるみたいな状態を作りたい。そこから先はB2BだけじゃなくてB2Cの、自宅でやっぱり高齢者の方とかが使えるデジリハとかもリリースしていきたいですし、B2Bから海外とか行政とか、そういった無限の広がりをどんどん作っていくような感じでやりたいなと。
「何者にもならなくていい」――高校生の岡さんを自由にした母の一言は、いま、世界 24 億人という数字と向き合う経営者の背中を、変わらず押し続けている。