CHAPTER 01

原点 ── 「納屋才」から「かき藤」へ。450年の家に生まれて

株式会社カキトー。三重県桑名市に本社を置き、空気調和設備の設計・施工を手がける会社である。今年はクリーンルームの設計・施工にも携わるようになった。

そもそもはサービスメンテナンスと空調施工の両立しまして、お客様をずっと囲い込むような施策をしております。

だが、空調という産業そのものは、まだ 100 年に満たない。100 年企業のルーツは、別のところにある。

伊藤家は江戸時代、交通の要衝だった桑名で、青果海産物問屋「納屋才」を営んでいた。その家に生まれた祖父は、大の遊び人だった。芸者衆を集め、食道楽が高じて、ついには料亭を開いてしまう。

私のおじいちゃんが、牡蠣(カキ)の「かき」、そして伊藤の「藤」で、「かき藤」という屋号の料亭が始まります。

料亭の名は、いつしか本家の「納屋才」よりも町で親しまれるようになり、やがて家の屋号そのものになった。祖父は事業家でもあり、料亭のほかに計量業、釣りの重りづくりと、商売を次々に広げた。父もまた、ドライクリーニング、石油販売、空調、貸しビル、ケーキ屋まで手がけた。

「事業家の血が、脈々と続いておられるのが伊藤家なんですよね」──金子のまとめに、伊藤さんは「そうですね、そんな感じです」と、こともなげに頷いた。

氷の卸売をしていたところに、取引先から「空調機を売ってみないか」と声がかかった。観音開きの空調機が 1 台売れれば 1 か月遊んで暮らせた時代。冷房のある喫茶店は大流行し、空調業者は次々と生まれた。そして、そのほとんどが消えていった。

なぜ、かき藤だけが残ったのか。

なぜなんでしょうね。私もちょっとわからないけれども、うちは愚直にやってただけでございまして。

CHAPTER 02

「楽しくて楽しくて、しょうがなかった」── 商社マン時代

伊藤さんは、生まれたときから跡取りとして育てられた。

実を言うと、生まれたときから、かき藤のお跡継ぎみたいな形の教育は受けてました。

ところが途中で、父の言うことが変わる。「継がなくていい」。青年期の伊藤さんは、ある意味で解放された。

大学を出て入ったのは、鉄鋼商社の阪和興業。配属は薄板の部署だった。自動車にも家電にも使われる鉄板を扱い、急に大口の担当を任されても、それをこなした。

新規開拓もトップ、売り上げもトップ。もう本当に、楽しくて楽しくてしょうがなかったです。

入社 3 年半。まさに絶頂期だった。

そこへ、父から連絡が入る。病気になった、もう長くはないかもしれない──。「帰ってこい」とは、一言も言わなかった。

病気でやったことは間違いないです。ちょっと気が弱くなられたのかもしれない。

真剣に悩んだ。相談したのは、大学の先輩でもある富士銀行の先輩だった。返ってきた答えは、こうだ。

どうせ帰るんだったら、早めに帰ったほうがいいぞ。

この一言で、伊藤さんは桑名へ帰る決意を固めた。

CHAPTER 03

空調の「く」の字も知らずに ──「背中で覚えろ」の日々

帰郷して入社したのは、空調の会社。営業はできても、専門のことは何ひとつわからない。

空調なんて「く」の字も分かんなくて。

社内には、昔気質の番頭格がいた。教え方は一つだけ。「背中で覚えろ」。

マニュアルがあって、こうしてこうしてこうしてって説明は一切ない。昭和の時代ですね。

現場について行っては、見て、真似る。積算でさえ、自分で編み出すしかなかった。

自分で積算する方法しかなかったんですよね。やっぱり悩みましたね。どうやってやればいいんだろうって。

それでも、少しずつ業績が上がり、仕事を覚え、部下ができた。そして社長に就任する。華やかな抜擢ではない。一つずつ積み上げた末の到達だった。

CHAPTER 04

青年会議所で交わした、3つの約束

社長への道のりで、伊藤さんが「大きかった」と振り返るのが、名古屋青年会議所(JC)への入会だ。

背中を押したのは、東京にいた頃から「親代わり」のように慕ってきた髙岡先生だった。桑名へ帰ると知るや、すぐに「名古屋青年会議所に入れ」。意味はわからなかった。ただ、3 つだけ約束させられた。

良い友達を作れと。そして誰か困ってる人がいたら、一歩進んで協力してあげなさいと。それともう一つは、仕事をするな。

青年会議所で、仕事の話をするな。伊藤さんはそれを 40 歳まで守り抜いた。

やはり桑名の人間ですから、名古屋の財界の人たちと対等に話をすることすら難しい事態だったので、本当に真面目にやったような気がします。

政策担当として、橋本龍太郎内閣の頃には国民会議にも参加し、首都機能移転にも力を注いだ。なかでも思い入れが深いのが、中部国際空港をめぐる提言だ。既存の名古屋空港をどうするかという JC の提言は、運輸省航空局から大きな賛辞を受けた。

嬉しかったですね。

「仕事の話をしない」場で、誠実に汗をかく。その積み重ねが、中部経済同友会、そして名古屋財界の中枢である丸八会へと、伊藤さんの居場所を広げていった。

CHAPTER 05

「お前のミッションは、桑名を案内することだ」

丸八会に入っても、伊藤さんは悩んでいた。この人たちに、自分はどう貢献できるのだろう。そのとき、会員の一人に言われた。

お前、桑名出身だろう。じゃあ桑名の案内をすることがお前のミッションだと。

これが、思いのほか受けた。三菱東京 UFJ 銀行の元頭取は数回足を運び、NHK も、日本航空も訪れた。ピークには年 20 回。

もう仕事ですね、これはもう。

案内は、乗用車 1 台に 4 人ほど。バスでの案内はほとんどしない。小さいほうが、魅力が伝わるからだ。

伊藤さんの桑名案内が特別なのは、ガイドブックに載らない話が聞けることにある。

例えば私のところの本籍地がお堀の近くなんですけども、お堀にはカニとかエビとかヘビとか住んでるんですよね。

庭に上がってくるカニは、多いときで 100 匹。朝になると、一斉にブクブクと泡を吹く。

100 匹集まると、すごい音になるんですね。

先祖の「納屋」が担ったのは、東海道の物流だった。名古屋の熱田から海路「七里の渡し」で桑名へ。中山道の物資を大垣や赤坂で船に積み、桑名へ運ぶ。伊藤さんは自らを、ご先祖様から伝わったものをそのまま語る「語り部」だと言う。

それを聞かれるとみんなが「えー」って言うように思われる。そのリアクションが嬉しくて、皆さんをご案内するという。

案内のバージョンは 5 つほどある。桑名の無形文化財「桑名の千羽鶴」も、その一つ。1 枚の和紙に切り込みを入れ、最大 97 羽がつながった鶴を折り上げる。日本航空の貴賓室には、必ずこの連鶴が飾られているという。

CHAPTER 06

はまぐりの先にある、桑名の旬

桑名と聞けば、誰もがはまぐりを思い浮かべる。伊藤さんも同級生が営む「日の出」をはじめ、「歌行燈」「魚重楼」など名店を案内してきた。

もともと桑名のはまぐりは、木曽三川の養分を含んで驚くほど採れた。漁港には貝殻の山ができるほどだった。それが採りすぎで一度は全滅しかけ、国の事業による稚貝の養殖でようやく盛り返した──伊藤さんはそう語る。

だからこそ、伊藤さんが「一番勧める」のは、はまぐりではない。

鮭科の白魚(シラウオ)。これは非常に淡白で美味しい魚で、1 月 2 月しか採れないんですけれども、これはお勧めですね。

踊り食いで知られるハゼ科のシロウオとは、まったく別の魚。「白魚のような手」と美人のたとえにも使われる、すらりとした姿の魚だ。

1 月、2 月、3 月がお勧めです。

金子は思わず「もし今日放送を聞いている皆さん、カキトーさんのホームページを開いていただいて、桑名ぜひご案内くださいと」と呼びかけた。伊藤さんによれば、一度訪れた人は、リピーターになることが多いという。

本当の観光とは、数を追うことではなく、少人数でも本物のファンを確実につくっていくこと──金子のそんな言葉に、伊藤さんは何にも属さず、自分ひとりで地域に貢献するという形をとってきたと答えた。

CHAPTER 07

成長は、存続のプロセスにすぎない

450 年。地域に根を張った一家が、なぜこれほど長く続くのか。伊藤さんの答えは、明快だった。

やはり存続ありき。ずっと続ける。だからあまり大きくするなっていう話もありますし。

自分の目の届く範囲の会社で、長く続けよ。身の丈に合った経営をせよ。

事業形態は変えてもいいから、名前は残せ。

ただし、成長を否定しているわけではない。

成長はしないとだめなんですよ。成長はしないとだめなんだけれども、それは存続の一つのプロセスであると。そういうように教えられてきました。

カキトーの歩みは、学術研究の対象にもなった。専修大学の研究者がまとめた論文では、長く続く秘訣が 3 つに整理されている。経営者の存続への強い意識。業種・業態の絶え間ない変容。そして顧客・人脈・人材という「人」の重視。

これもね、お恥ずかしい限りなんですよ。

本人はそう謙遜する。だが、喫茶店の空調から始まり、計量、石油、ドライクリーニング、そしてクリーンルームへ。業態を変え続けながら、屋号だけは決して手放さなかった一家の歴史そのものが、その 3 つの証明になっている。

VOICES

名言

うちは愚直にやってただけでございまして。
事業形態は変えてもいいから、名前は残せ。
成長はしないとだめなんだけれども、それは存続の一つのプロセスである。
人よりも数倍すれば何とか追いつけるだろうという気持ちを常に持っています。

VOICE BEHIND THE VOICE

伊藤さんの原音

対話の中で、ふと口にした言葉。
編集部が聴き取った、その人の核にある原音。

「仕事の話をするな」という約束

良い友達を作れと。そして誰か困ってる人がいたら、一歩進んで協力してあげなさいと。それともう一つは、仕事をするな。

──名古屋青年会議所への入会にあたって交わした 3 つの約束。伊藤さんはそれを 40 歳まで守った。損得抜きで汗をかいた場の縁は、長く続く。丸八会での「桑名を案内せよ」という一言も、元をたどればこの約束の先にあった。商売の話をしなかった人に、いちばん大きな縁が巡ってきたのである。

語り部は、案内の「量」を追わない

それを聞かれるとみんなが「えー」って言うように思われる。そのリアクションが嬉しくて、皆さんをご案内するという。

──乗用車 1 台に 4 人。バスは使わない。お堀のカニの泡の音、97 羽の連鶴、1 月にしか出会えない白魚。伊藤さんの桑名案内は、ネットにもガイドブックにも載らない「家の記憶」でできている。数を追わず、一人ひとりの「えー」を集める。インバウンドの数字が語られがちな時代に、これは地域の魅力の伝え方そのものへの、静かな問いかけでもある。

名前を残せ、業態は変えていい

自分の目の届く範囲の会社で、長く続けるように。

──450 年続く家の教えは、驚くほど柔軟だ。何を売るかにはこだわらない。こだわるのは、名前と、目の届く範囲と、身の丈。成長は目的ではなく、存続のための手段にすぎない。拡大こそが経営だと思われがちな時代に、この一家は「続くこと」を物差しにしてきた。その物差しの真ん中にあるのが、伊藤さんの言う「愚直」なのだと思う。

CLOSING

あの日の、一言

収録の最後、改めて「あの日の、一言」を問いかけた。伊藤さんが挙げたのは、「愚直であれ」という言葉だった。

愚直であれ

── 中国古典『菜根譚』

私って周りには、できるというか、先を読む力がありそうな人間に見えるんですけども、そもそもは何もできない人間で、人よりも数倍すれば何とか追いつけるだろうという気持ちを常に持っています。

出典は、中国古典『菜根譚』。きっかけは、名古屋で 100 冊の古典を読ませる塾に学んだことだった。いまも守屋先生のもとで中国古典の勉強を続けている。

『菜根譚』は 30 代、40 代、50 代と読み、そのたびに途中で挫折した。ところが、事業承継に向き合う年齢になって読み返すと、言葉が胸に刺さった。前集は現役の言葉、後集は第一線を退いた後の言葉。昔は読み飛ばしていた箇所が、急に意味を持って立ち上がってきた。

だいたい経営者ってアグレッシブに行くじゃないですか。どんどんどんどん行って、だから事業承継が遅れちゃうんですね。

名誉と地位が集まれば、お金も集まる。手放せなくなる。そうして承継が遅れていく。

ですから会社経営者さんは、ある年齢に達したら、菜根譚読んでよって僕は言いたい。

自ら線を引き、引き際を計る。そのすべてが書いてあったと、伊藤さんは言う。

全部書いてあります。全部書いてある。おかげで後継者にも恵まれまして。

収録前、伊藤さんはもう一つの言葉も挙げていた。老子に由来する「我ただ足るを知る」。身の丈を知り、目の届く範囲を守る──450 年の家訓と、どこかで重なって聞こえる。

明るく、楽しそうに地域を語る伊藤さん。だが、その姿だけを見て「愚直」という言葉を認めてくれない人も多いという。そこには、秘められた努力がある。それを分かってほしい──伊藤さんは、少しだけ本音をのぞかせた。