CHAPTER 01

原点 ── 面接の前日、父が東京に乗り込んできた

千葉県・房総半島を走る、いすみ鉄道。外房の大原駅から上総中野駅までの 26.8 キロを結び、その先で小湊鐵道とつながる「房総横断鉄道」の一翼を担う。その社長が、実は香川県高松市の生まれだと聞くと、多くの人は少し驚く。

僕は 3 代目だったんで、小さい時から「3 代目」って言われて育ったっていう感じなんですけれども。

家業は、高松市で長い歴史を持つタクシー会社。古竹さんは「交通」、つまり道に興味を持ち、東京の大学・大学院で学んだ。そのまま東京で就職するつもりだった。ところが、ある企業の面接の前日。

父に就職する面接の前の日に、父が乗り込んできて、東京に。「もう帰れ、以上」みたいな感じで言われて。

翌日、古竹さんは面接会場へ行き、「一身上の都合で受けられなくなりました」と頭を下げて帰った。家業は 30 億円を超える借金を抱えていた。

3 代目って言われて育ってきたんで、いつかは帰ろうと思ってましたけど、まさかこうやってすぐ帰るとは、あんまり思ってなかったんですけれども。

大学で学んだ都市計画や交通計画を、生かす場所はもうない──。このとき胸に残った小さな心残りが、20 年以上たって、思いもよらない形で回収されることになる。

CHAPTER 02

最初の仕事は、「無期限・7 億円」の連帯保証

高松に戻った古竹さんを待っていたのは、仕事の引き継ぎではなく、一枚の書類だった。

銀行が急に来て、目の前で「何て書いたらいいんですか」って、若いからわかんないから言ったら、「限度額 7 億円ってまず書いてください」と。次に期限、「無期限って書いてください」って言われました。

無期限って書くんだ、と思った──そう古竹さんは笑うが、社会人として最初にした仕事が、無期限の個人保証だったのである。

そっからスイッチ入って。

そこからの日々は、ひたすら借金を返すことに費やされた。会社が「潰れる」と思った瞬間は 3 回あった。20 代のいい思い出は「結婚したことと、子どもができたことぐらい」だという。

当時の自分を、古竹さんは率直に振り返る。必死すぎて、社員を一人の人として見られていなかったのではないか、と。それでも、ちょっとしたことの積み重ねで、会社は立ち直った。

それがあったから、今が何でも乗り越えられるのかなというのは、正直思いますけどね。

CHAPTER 03

空いたフロアを、自分の会社で埋める

再建の途上で、古竹さんは次々と会社を立ち上げていく。きっかけは、壮大な経営ビジョンではなかった。

会社が持っていたビルが、耐震基準を満たしていなかった。支店経済の香川では、本社の判断で入居企業が耐震性の高いビルへと移っていく。フロアは、歯が抜けるように空いていった。街中にあるため、建て替えも簡単ではない。

しょうがないから自分で会社作ろうと思って、自分で会社をポコポコ作っていった。

保険代理店、パーソナルジム、特殊車両の会社──。空いたフロアを埋めるために、自ら家賃を払う会社をつくる。気がつけば、名前だけのものも含めて 14 社ほどの代表を務めていた。

ただし、グループ内でお金を融通し合う「キャッチボール」は、絶対にやめようと決めた。

だってそこで勤めてね、儲けてるのに、隣のところにキャッチボールで渡したら怒るじゃないですか。

それぞれが部門別に採算をとる。成り立たないなら、やめる。金子が「稲盛和夫氏のアメーバ経営のようだ」と重ねたのも、うなずける。実際、古竹さんは収録前に寄せた回答で、40 歳のときに受けたコーチングで「ただの三流の経営者」と言われ、盛和塾香川の門をたたいたことを明かしている。

若い人材にいきなり代表を任せても、銀行はなかなか首を縦に振らない。だから古竹さん自身が共同で代表に立ち、経験を積ませながら、少しずつ引き継いでいった。

特に別に、それで大儲けしたっていうのは一個もないですけどね。

CHAPTER 04

社長室を、つくらない

主力のタクシー会社を、どう立て直したのか。古竹さんの答えは、驚くほどシンプルだった。

やっぱり現場にずっといるっていうことは、すごく大事かなと思ってますね。

配車室にいる。運転手のそばにいる。声を聞く。そして、組織を大きなピラミッドにしない。

自分の目が届く位置って、やっぱり 10 人以下ですよね。

5 人、10 人の単位に直接アプローチすれば、自分の声はまだ届く。だから、自分の下に 50 人がぶら下がる形は、一度もつくらなかった。

そしてもう一つ、古竹さんの隣には、必ず「相棒」がいる。

よく番頭さんとかって言うじゃないですか。番頭と思ったことはないですね。だから本当に相棒で、隣にいる人で。

相棒が「こうだ」と言うなら、それで行く。35 歳で父を亡くした古竹さんは、自らの社長業を「他力本願」と表現する。社員やまわりの人に頼って、はじめて会社は成り立つ。だから、権威で人を動かそうとしたことはない。

社長室は、つくらない。基本はワンフロア。会社によっては、社長の席がいちばん窓口に近いこともあった。

営業マンが「社長いらっしゃいますか」って、僕に言うところが結構多かったんですよ。

そこで古竹さんは、「ちょっと呼びますね」と応じて見せたという。スタジオが笑いに包まれた一幕だが、中小企業の再建で、社長が最前線に立つことの意味が、この逸話に凝縮されている。

CHAPTER 05

誕生日に見つけた、千葉からの「社長公募」

14 社を率いる経営者が、なぜ千葉のローカル線の社長に応募したのか。

正直、子どもたち 2 人が大学生になったんで、嫁さんと 2 人きりになったんで、新しいことにチャレンジしようよって話を。

そんな話を夫婦でしていた 7 月、自分の誕生日に、地元・高松のことでん(高松琴平電気鉄道)の社長(当時)がフェイスブックに投稿した、いすみ鉄道の社長公募の情報が目に留まった。千葉で交通を学んだ古竹さんに、その社長は「適任だ」と言い、「高松のことは僕がやっておくから、行ってきてください」と背中を押した。今、その人は古竹さんのタクシー会社の会長を、言葉どおり引き受けているという。

選考の途中、西日本豪雨の被災地・岡山で、理事を務める財団の縁から、さだまさし氏とともに支援活動をしていた古竹さんは、本人にいすみ鉄道を受けていることを打ち明けた。「行け」と背中を押されたものの、「そんなんで受かりたくないけど」と返したと笑う。

妻も反対しなかった。むしろ本人より先に、「受けたら受かるわよ、あんたは」と言ったという。

だってもともと連帯保証だって勝手にしてるくらいの人間なんですからね。

そして、古竹さんがこの挑戦に惹かれた本当の理由は、20 年以上前のあの日にさかのぼる。

大学時代にやってきたことが、生かせられないなって思うわけで。それが心残りだったんです。

タクシーは、目の前のお客さまを大事にする現金商売だ。けれど鉄道は、まちづくりそのものに関わる。面接を受けずに東京を去った青年の心残りは、こうして、地域の鉄道という形で回収されることになった。いまは大学からも声がかかり、客員研究員も務めている。

そういう意味では、僕はやれてないことを本当にさせていただいてるんで、ちょっと生かされてるなって感じは、ちょっとしますけどね。

CHAPTER 06

取材 NG の社長が、「応援団長」になった

高松時代の古竹さんは、取材を一切受けない社長だった。

出たら自分の経営の寿命が縮まると、勝手に思ってたっていう。

偉そうに語れば、「お前、やってねえじゃん」と指をさされる気がした。ところが、いすみ鉄道に来ると状況は一変する。とにかく出てくれ、と言われた。

学生時代に応援団の団長を務めていた古竹さんは、「チームいすみ鉄道」を掲げ、自らを応援団長のような立ち位置に置いた。高松でもカウントダウンコンサートなど地域の活性化に取り組んできた経験を、今度は鉄道を真ん中にしてやってみよう──。それが、社長公募でのプレゼンだった。

いすみ鉄道といえば、多くの人が思い浮かべるのは、沿線を黄色く染める菜の花の中を走る列車だろう。その風景の始まりを、古竹さんは教えてくれた。国鉄から切り離されたとき、「うちには何もない」と考えた運転士が、自ら菜の花の種をまき始めた。それを見た地域の人たちが「俺らも手伝うわ」と加わり、あの景色ができあがったのだという。今も運転士が種をまき、地域の人たちとともに守っている。

鉄道は、かつて「地域の足」と言われた。しかし今、房総の人口は減り、車がないと暮らしにくい。だからこそ古竹さんは、鉄道の役割を変えようとしている。

地域の足っていうところから、やっぱり地域のシンボルっていうか、そういうものに変えていく。

点と線と面をつなぐ。地方創生の中身を開けてみると、言っていることはばらばらなことが多い。けれど、地域をつなぐハブになれるのは、やはり鉄道だ。タクシー会社の社長が「地域活性化を」と言っても、「急にどうしたんだ君」となる。鉄道だから、人が集まってくる。

僕は多分、タクシーの時の社長っていう世界の、100 倍ぐらいの見られ方もしてるかもしれない。

CHAPTER 07

「元に戻す」で終わらせない

2024 年 10 月、いすみ鉄道は脱線事故を起こし、全線で運行を見合わせることになった。現在は代行バスで地域の足を支えながら、2027 年の運行再開に向けた復旧が続いている。

電車が動いていない間も、仕事は意外と多い。バスの運行の手配から、地域の活動まで。それでも古竹さんは、ここで感じなければならないことがあると言う。

地域の方にはやっぱり、線路のところを走ってないと、なんか違うなって言われながら、やっぱり自分も感じてるところあるんで。そこをやっぱり戻して、しっかり地域のために役に立てるように努力したいなというところです。

そして古竹さんが、いま最も手応えを感じているのは、人だ。就任した 8 年前、社内に自分より若い社員は 2〜3 人しかいなかった。それが今は、新卒採用を 6 年連続で続け、15 人ほどの若い人材が加わった。

その人間がやっぱり、僕らの宝なんだと思ってて。

家賃が高いと聞けば、いい物件を探してあげたいと考える。社内のことも、社外のことも、若い社員がずっと働き続けられる仕組みを一つひとつ考えていく。

収録前に寄せた回答で、古竹さんはこう書いている。鉄道の復旧とは、線路や車両を元に戻すことではない。もう一度、この地域に人が集まり、暮らし、未来を描ける状態をつくることだ、と。高松で、ピラミッドではなく小さなチームの網の目で会社を立て直した経営者は、いま房総で、同じ発想で鉄道と地域をつなぎ直そうとしている。

VOICES

名言

そっからスイッチ入って。
自分の目が届く位置って、やっぱり 10 人以下ですよね。
番頭と思ったことはないですね。本当に相棒で、隣にいる人で。
その人間がやっぱり、僕らの宝なんだと思ってて。

VOICE BEHIND THE VOICE

古竹さんの原音

対話の中で、ふと口にした言葉。
編集部が聴き取った、その人の核にある原音。

「無期限」から、スイッチが入った

無期限って書くんだって思いましたよね。

──限度額 7 億円、期限は無期限。社会人になって最初に書いた書類を、古竹さんは笑いながら振り返った。普通なら人生を呪いたくなる出発点だ。けれど古竹さんは、それを「スイッチが入った」瞬間として語る。3 度の倒産危機を越えた経験が、今の「何でも乗り越えられる」という静かな自信の土台になっている。逆境を、そのまま自分の燃料に変えてしまう人なのだ。

社長は、窓口にいちばん近い席に座る

営業マンが「社長いらっしゃいますか」って、僕に言うところが結構多かったんですよ。

──社長室をつくらず、ワンフロアの、ときには窓口のすぐそばに座る。番頭ではなく相棒を置き、目の届く 10 人以下の単位で声を届ける。古竹さんの経営には、権威の仕掛けがひとつもない。その代わりにあるのは、現場の声がいちばん早く届く距離だ。いすみ鉄道で若い社員に「今日はどこ行ってたんですか」と突っ込まれても笑っていられるのは、この距離感を何十年も守ってきたからだろう。

「足」から「シンボル」へ

地域の足っていうところから、やっぱり地域のシンボルっていうか、そういうものに変えていく。

──人口が減り、車社会が進む地方で、鉄道を「移動手段」としてだけ見れば、その価値は縮んでいく。古竹さんは問いの立て方そのものを変えた。鉄道は、地域の人と人、心と心をつなぐハブになれるか。一人の運転士がまいた菜の花の種に、地域の人たちが手を貸して名所が生まれたように。鉄道が走っていることそのものが、地域の誇りになる──古竹さんが取り戻そうとしているのは、線路だけではない。

CLOSING

あの日の、一言

これまでの人生で受け取った、忘れられない一言は何か。収録現場で改めて問いかけると、古竹さんは、小学校 6 年生の時に恩師から贈られた一枚の色紙の話を始めた。

本物に出会う心

── 小学校 6 年生のとき、恩師から贈られた色紙

その色紙に書いてあった文字が、「本物に出会う心」って書いてたんですよ。

小学校の時は、まったく意味がわからなかったんですよ。ずっとわからなくて、40、50 歳になってきて、ここ最近になって。

本当に潰れそうな時に助けてくれた人とか、あの時にこうやって言ってくれた人とか、いろんなことを感じながら。茶道の時に家元からいろんなことを言われたりしながらでも、やっぱり本物を感じながら自分を磨いていく。この年になって、やっとあの時の先生が言ってるのがわかってきたぞっていう感じになってるだけなんですけど。

人をつないでいく中で、僕はよく「心と心をつなぐ」って言うけど、じゃあお前、心をちゃんと磨いてんのかって言われたら、やっぱり自分に言い返してる感じもちょっとあったりしますけど。

金子が「本物に出会うには、こちらも出会う心を持っていないといけない」と受けると、古竹さんはうなずいた。

ちゃんと迎えるために、一生懸命こっちもちゃんと尽くさないと、返ってこないですよね、やっぱり。

AI がつくった文章や映像の真偽が見分けにくい時代。資生堂名誉会長だった福原義春氏の著書に触れながら、古竹さんは「見えないものを見る力」、つまり本物を見抜く力の大切さを語った。

そういうものをちゃんと一つ一つ丁寧にやっていかなきゃなって思いながら、毎日反省してるっていうところです。

意味のわからない言葉を、捨てずに 40 年以上持ち続けた。その色紙の一言が、今、鉄道を通して人と人、心と心をつなごうとする経営者の背中を、静かに支えている。