CHAPTER 01

原点 ── 野球推薦を手放し、知らぬ間に決まっていた学校へ

創業 74 年目。祖父が始めたパナソニックショップ・京王電業社の 3 代目となる福田さんは、もともと家業を継ぐつもりではなかった。

高校時代、打ち込んでいたのは野球だった。大学からの推薦も受けていた。ところが、大学で野球を続けたいと伝えると、創業者である祖父から返ってきたのは、思いがけない一言だった。

祖父の方から商売をやれっていう風に、野球じゃ食っていけないだろって言われて。

まあ、そうかな──。素直に聞き入れた福田さんに、祖父は「いいとこがあるから、1年間だけ行ってこい」と告げる。

通常であれば、本人が見学をし、自分の意思で申し込む専門学校だ。しかし福田さんの場合は違った。

私の場合は急に言われたので。でも行くのがもう決まってまして。

本人の承諾なく、申し込みはすでに済んでいた。そうして福田さんが向かったのが、当時は滋賀県にあった松下幸之助商学院。パナソニックショップの後継者を育てるための、住み込みの研修施設である。

祖父が敷いたレールの上を、半ば押し出されるように歩き始めた 18 歳。けれどこのレールこそが、後に福田さんの商売の骨格をつくっていくことになる。

CHAPTER 02

正座 45 分の素読 ── 松下幸之助商学院の 10 カ月

松下幸之助商学院の朝は、太鼓の音で始まる。

5時55分に太鼓で起こされて、その後3キロ走ってラジオ体操をして。

毎朝である。そのあとに待っているのが、45 分間の正座をしながらの古典の素読。『大学』『論語』『孟子』を、約 10 カ月かけて毎日読み続ける。

最初は素読するどころじゃなくて、正座するのが大変です。

でも不思議なもんで、やっぱり10ヶ月ぐらいやってると、正座できるようになっちゃうんですよ。

経営の数字やマーケティング、お客様との心理学まで、商売に必要なことが 1 年間にぎっしりと詰め込まれていた。それに加えて、毎朝の素読で古典の名文が身体に染み込んでいく。卒業生でつくる全国組織の集まりでは今も必ず『大学』の素読を行うといい、福田さんは「ほぼほぼ頭に入って読める」と笑う。

この話に、松下政経塾で前塾頭を務めた金子が深くうなずいた。商学院と政経塾は宿舎の建物も生活様式もよく似ている。けれど政経塾にはないものが 2 つある、と金子は言う。ひとつは、ラジオ体操のあとに全国から集まった塾生がそれぞれの故郷の方角へ向かって礼をし、感謝を捧げる習慣。もうひとつが、毎朝の古典の素読だ。

江戸時代の寺子屋の教育が、そのまま息づいている場所。その空気のなかで、福田さんは「商売人」としての土台を、知らず知らずのうちに固めていった。

CHAPTER 03

山形、自転車で毎日 200 軒 ── 言葉が通じなかった 3 カ月

商学院を卒業すれば、笹塚に帰る。そう思っていた福田さんを、祖父はまたしても別の場所へ送り出した。

「食事に行くから」と誘われて出かけると、その席にはすでに山形の電気店の社長が座っていた。

来るんだな、頑張れよ、みたいな感じで話になって。

人生は長い、たかが 2 年だ。よその会社で修行してこい──。こうして、山形県での 2 年半の丁稚奉公が始まった。

まず立ちはだかったのは、言葉の壁だった。

まず言葉が伝わらなかったんですよ。

自分に向けて話してくれる言葉は、ニュアンスでなんとなく分かる。けれど、お客様同士が交わす山形弁がまったく分からない。「ちょっと海外に来てしまったみたい」だったと振り返る。

最初の 1 年は、車も与えられなかった。チラシを持って自転車で回る。雪の日も、夏の暑い日も。

毎日200軒回ってたんですよ。

玄関の戸を開けて「こんにちは」と声をかけ、店の名を名乗って頭を下げる。言葉を覚えるまでに 3 カ月。通い続けるうちに、「あなた東京から来たの」と声がかかるようになり、「上がってけ」「お茶飲んでけ」と家に招かれるようになった。

さくらんぼの摘み取りを手伝い、朝は雪かきを手伝う。そうしているうちに、「何々を持ってこい」「こういうのをやってくれ」と、仕事の依頼が次々と舞い込むようになった。

人のためにやることによって帰ってくるもので、商売って成り立つんだっていうところを、ちょっと教えていただいて。

2 年半が過ぎ、東京へ帰る日。福田さんを待っていたのは、地域の人たちからの言葉だった。

あなたがいないと困るっていう地域の方から、たくさん言われて。

その一言が、「家業に戻って、自分の店でやってみよう」と思わせる最後のきっかけになった。

CHAPTER 04

「お客さんは、彼女だと思え」── 東京でも、原点は同じ

山形で教わったことのなかで、福田さんが今も大切にしている言葉がある。教えてくれたのは、修行先で営業のトップを務めていた人だった。

彼女だと思えってよく言われたんですよ。

お客様との出会いを、恋人との出会いのように大切にせよ。好きになってもらう。困っていることがあれば手伝う。お米の収穫を手伝いましょうか、雪かきをしますよ──お客様のお困りごとを、すべて引き受けてくる。それが商売だと教わった。

帰京したとき、福田さんはすっかり山形弁になっていて、親にもお客様にも笑われたという。それだけ、どっぷりと地域に浸かった 2 年半だった。

舞台が渋谷区・世田谷区という都市部に変わっても、原点は変わらない。もちろん東京は、最初はインターホンを押しても出てもらえない。けれど、と福田さんは続ける。

でもそこを扉を開くと、また次のステップに入ると東京でも一緒。

最初の扉さえ開けば、人と人はつながっていく。違うのは、その入口だけだ。

だからもう楽しみながらお客さんのところに行かないと。

町の電気屋の 3 代目が、山形の雪道で身につけたもの。それは、どこの街でも通用する「人とのつながり方」そのものだった。

CHAPTER 05

物を売る店から、暮らしを直す店へ

家電は、いまやどこでも買える。量販店があり、ネット通販がある。町の電気屋が「物を売る」だけで生き残るのは、年々難しくなっていた。

その中で、福田さんが見出した強みが「工事」だった。

僕らとしてはやっぱりその中でも強みを出せるのは、やっぱり工事だったんですよね。

電気とガスの資格はすでにある。お客様からは「トイレもやってくれないか」「ガスの工事もやってくれないか」という声が絶えなかった。ならば自分たちでやれるようにしよう──。水道工事の資格を取り、建設業の許可を取り、思い切って住宅リフォーム事業を立ち上げた。

結果は、売上の構成比にはっきりと表れている。

家電が今だいぶ落ちてきてまして、3割から4割ぐらい。リフォームの事業の方が6割以上になってきてます。

面白いのは、リフォームが家電を連れてくることだ。キッチンを新しくすれば冷蔵庫が欲しくなり、お風呂を直せば洗濯機の買い替えにつながる。お店にやってくるお客様の姿も、すっかり変わった。

昔は家電で困った人が結構お店に来てたんですけど、今は住宅で困った人がうちに来て。

リフォームは、家の中に入る仕事だ。人間関係がなければ任されない。家電を通じて長年お客様の家に出入りしてきた信頼が、そのままリフォームの信頼になった。お客様アンケートで選ばれる理由の上位に並ぶのは、「安心」「近い」、そして「人」。山形で学んだ商売の原点が、事業転換の土台にもなっていた。

CHAPTER 06

失敗も、たくさんある ── それでも家電を諦めない

挑戦は、成功ばかりではなかった。

ショールームをつくった際、福田さんは「体験してから買える」家電コーナーを設けた。なかでも力を入れたのが、パナソニックの美容家電を使ったセルフエステのコーナーだ。せっかく買ったのに使いこなせない──そんなお客様の声に応えようと、店内でサブスクのように通える仕組みまで用意した。

しかし、壁は思わぬところにあった。

お店でやったんですけど、なかなかお化粧を落とすのが大変だとか。

電気屋さんのブースで、すっぴんになる。それは、お客様にとってあまりに高いハードルだった。認知も広げきれず、事業としては続かなかった。

アイデアは良かったんですけどね。なかなかそれを事業としてやるのは、ちょっと厳しかったかなっていうところはありますかね。

失敗を隠さずに語れるのは、そこから次の活路を探し続けてきたからだろう。そして福田さんは、家電そのものを諦めてもいない。祖父の代から続くパナソニックとの縁があるからこそ、こう語る。

自分の代で家電店として、パナソニックショップとして、もう少し販路を広げることをやって、バトンタッチしたいっていうのがあります。

売れ筋は、工事に強い同社らしくエアコン。その先にある「家電の復活」に向けて、買い方や価値の伝え方を変える構想は、まだこれから形になっていく。

CHAPTER 07

東京のど真ん中で、人を磨く ── 技術者スクール構想

リフォーム事業で基盤ができた今、福田さんが次に見据えているのは「人」だ。

今一番社会で求められているのは、やっぱり技術者だと思いますね。

エアコンや給湯器の工事は、暮らしに欠かせない社会インフラだ。にもかかわらず、技術者は足りておらず、今後さらに減っていく。どれだけ若い人がこの業界に入ってきてくれるか──それが業界の未来を左右する、と福田さんは考えている。

そこで構想しているのが、技術者を育てるスクール制度だ。京王電業社でも、3〜4 年働いたあと、5 年ほどで独立を望む社員がいる。実際に独立していった仲間もいる。ならば、それを前提にした仕組みをつくればいい。

独立して一緒に協力業者として一緒にやるのもいいですし、独立していってもいいというようなところで。

育成できる現場は、たくさんある。独立しても、自社に残っても、協力関係を保ちながら一緒に地域の暮らしを支えていく。その根っこにあるのは、福田さん自身の体験だ。

人の役に立って、それを自分の技術とか知識でもそうですけど、それがやっぱりお客さんに喜ばれて、それが戻ってくるんですね。

実は京王電業社は今、かつての福田さんと同じように、他店での修行を望む若者たちを受け入れている。何人もがここで学び、全国の自店へ戻って活躍しているという。かつて山形に送り出された青年が、今は送り出す側に立っている。

山形ではなくて東京のど真ん中で、東京で人間を磨く修行できるような、そういうのをやっていきたいなと思ってます。

松下幸之助が人を大切にしてきたこと。それが祖父の代からの長い付き合いのなかで、自分にも落ちてきているのかもしれない──。福田さんはそう静かに語った。

VOICES

名言

人のためにやることによって帰ってくるもので、商売って成り立つ。
あなたがいないと困るっていう地域の方から、たくさん言われて。
昔は家電で困った人が結構お店に来てたんですけど、今は住宅で困った人がうちに来て。
山形ではなくて東京のど真ん中で、東京で人間を磨く修行できるような、そういうのをやっていきたい。

VOICE BEHIND THE VOICE

福田さんの原音

対話の中で、ふと口にした言葉。
編集部が聴き取った、その人の核にある原音。

敷かれたレールの、その先で

私の場合は急に言われたので。でも行くのがもう決まってまして。

──野球推薦を手放し、本人の知らぬ間に申し込まれていた商学院へ。卒業すれば今度は、食事の席で山形行きが決まっていた。福田さんの青春は、祖父の「マジック」の連続だった。けれど福田さんは、それを恨み言として語らない。「素直に聞いて」と、さらりと言う。敷かれたレールを嫌々歩くのではなく、そのレールの上で毎日 200 軒の扉を叩き、言葉を覚え、地域に溶け込んでいった。道を選んだのは祖父でも、その道を自分の原点に変えたのは、福田さん自身である。

扉の向こうは、どこでも同じ

でもそこを扉を開くと、また次のステップに入ると東京でも一緒。

──山形の玄関先は開いていた。東京のインターホンは、なかなか応えてくれない。それでも福田さんは、東京の人が冷たいとは結論づけない。違うのは入口だけで、その先にある人と人とのつながりは同じだと言う。「お客さんは彼女だと思え」という教えを、渋谷や世田谷でも愚直に実践してきたからこそ、家電の店はリフォームを任される店になった。地域密着とは、場所の話ではなく、人との向き合い方の話なのだと気づかされる。

送り出された人が、送り出す人に

山形ではなくて東京のど真ん中で、東京で人間を磨く修行できるような、そういうのをやっていきたいなと思ってます。

──かつて山形へ送り出された 20 歳前後の青年は、今、修行に来る若者を受け入れる側に立っている。そして次は、技術者スクールという形で、その仕組みをもっと大きく開こうとしている。祖父から父へ、父から自分へと受け継がれてきたものを、今度は血のつながりを超えて次の世代へ手渡そうとしているのだ。町の電気屋が減っていく時代に、福田さんが描いているのは、店を残すことだけではない。人を残す、という未来である。

CLOSING

あの日の、一言

収録の終わり、これまでの人生で受け取った忘れられない一言を、改めて尋ねた。福田さんの口から出てきたのは、またしても祖父の名前だった。

お前らの代では電気屋でいいかもしれないが、次の代はどうなるか分からない。よく周囲を見て、新しい事業があればきちんと転換していけ

── 祖父(京王電業社 創業者)

創業から 50 年を少し過ぎた頃。福田さんが山形での丁稚奉公から戻って間もない時期に、祖父と福田さん、そして弟さんの 3 人で対談をしたことがある。そのときの映像が、今もビデオに残っている。

世の中の周りの変化をよく見なさいと。その変化を見て変化する時には、やっぱり決断をして変化しなさいと。

僕らの代は、3代目は電気屋でもいいかもしれない。でも次の代は電気屋がないかもしれない。だからよく世の中の変化を見て変化しなさいと。

当時は、その重みに気づかなかった。言葉がよみがえってきたのは、リフォーム事業を始め、それが軌道に乗った頃だったという。

10年先、15年先を見て、祖父はそういう言葉を言ったのかな。今聞くとゾッとしますけどね。

なんでリフォームに決断できたのかっていうのを、ちょっと思い出すと、やっぱりそういうのが残ってたからなのかな。

家電で成功した創業者が、孫に「次は電気屋がないかもしれない」と告げる。それは簡単に口にできる言葉ではない。けれど、変わるべきものと、変わらないものがある。福田さんは最後に、こう言い添えた。

やっぱり地域の暮らしを良くするっていう原点は変わらないので。

変化を見て、変化する。そして、原点は手放さない。祖父の一言は、20 年以上の時を経て、3 代目の経営の羅針盤になっている。