原点 ── やりたいことが見つからない自分を、責めていた
『致知』は、書店には置かれていない。年間定期購読制の月刊誌である。1978 年の創刊から 48 年。いまや電子版も含め、11 万 8 千人の愛読者のもとに届けられている。
創刊当時は、日本の高度経済成長期だった。誰がこの時代に、こんな堅い雑誌を読むのか──そう言われた船出だったと、藤尾さんは振り返る。
いつの時代でも仕事にも人生にも真剣に取り組んでいる人はいる。そういう人たちの心の糧になる雑誌を作ろうという理念がありました。
創刊 3 号目から定期購読に切り替えた。売れるためではなく、待っていてくれる読者のために。その一筋の歩みが、本が売れないと言われる時代に、逆に強さになった。
その雑誌をつくってきた藤尾秀昭氏の長女として生まれながら、藤尾さん自身は、父の会社で働くという選択肢を持っていなかった。父もまた一人のサラリーマンからこの仕事を始めた人で、家族を会社に入れるという考えはなかったのだろう、と藤尾さんは言う。
大学を出て、食品メーカーに就職した。けれど、心は晴れなかった。
やりたいことが見つからない自分のことを、ダメな自分と思っていた時が、学生時代から社会人1年目まで。
父から手渡された一冊 ── 「人は人によって輝く」
社会人 1 年目の 2 月。家で、父が一冊の本を差し出した。会社で出したばかりの新刊、SBIホールディングス北尾吉孝氏の『何のために働くのか』だった。
今の私に必要なテーマだなというふうに思って、ここに自分の悩みのヒントがあるかもしれないと思って。
ページをめくると、こんな言葉があった。働くとは、傍(はた)を楽にすること。そばにいる誰かの役に立つことが、働くということだ。そして、本は読者に問いかけていた。あなたは、これからの人生をどのように生きていきたいですか、と。
答えは、すぐには見つからなかった。
ある日、友人と立ち寄った新宿の紀伊國屋書店で、友人が声を上げた。「お父さんの本、あるよ」。父の著書『小さな人生論』だった。何気なくめくったページから、一行が胸に飛び込んできた。
人は人によって輝くっていう言葉があって、すごい素敵な言葉だなと。
自分もまた、たくさんの人に輝かせてもらう場をもらって、ここまで生きてきた。そう気づいたとき、ありたい姿が初めて輪郭を持った。
私もいつか誰かを輝かせることができるような人間になりたいというふうに思いました。
本は、偶然だったのか。今思えば、悩む娘のために父が用意してくれたのではないかとさえ思う──藤尾さんはそう語った。金子は、言葉を交わさずとも本を通じて応え合った父娘の関係を「いいパターンの話ですね」と受け止めた。
「足し算と引き算ができればええんや」
転機は、思いがけない方向から訪れた。致知出版社で長く経理を担ってきた女性社員が、出産で会社を離れることになった。後任に、と名前が挙がったのが藤尾さんだった。
声をかけたのは、会社の経理顧問の先生。元松下電器で、松下幸之助氏のもとで経理に携わってきた経歴の持ち主である。一度も会ったことのない社長の娘を、自ら指名したのだという。
経理の経験は、まったくなかった。
その先生から足し算と引き算ができればええんやと言われまして、それならできますというので始めまして。
あまりに軽やかな誘い文句に、スタジオにも笑いが起きた。けれど、入ってみて知ったのは、致知出版社の仕事の本当の姿だった。
致知出版社の仕事ってまさに言葉によって人の人生に輝きを与えていく仕事だったので、素晴らしい仕事と出会えたなというふうに思いました。
経理の仕事を天職だと思えるほど、毎日が楽しかった。そして、会社には読者からの手紙が届き続けていた。『致知』は人生のバイブルだ。人生の羅針盤だ。『致知』と出会って、もう一度生きてみようと思った──。
こんなに感謝されて人の人生に大きな影響を与える仕事を、父親はしていたんだと。
一緒に働いて、初めて父の仕事が分かった。この父のもとに生まれてよかった。そう思えたとき、藤尾さんの中に、それまでなかった軸が立った。
自分の中に大きな自己肯定感の軸みたいなのが立ちまして。
社長の懐中電灯になる ── 入社初日の言葉
金子が今回の収録で、最も聞きたかったエピソードがある。藤尾さんの文章で読み、強く心に残った一言だ。
入社初日。足し算と引き算の話に続けて、あの先生が藤尾さんに伝えた言葉があった。
けいこさんは藤尾社長の懐中電灯になってあげてください、と言われました。
経営者は孤独だ。最終的な決断をするとき、相談相手はいない。結局は自分一人で決めなければならない。だが、その判断の拠り所となる数字や資料を照らしてあげることはできる。足元が照らされていれば、社長は安心して経営判断を下していける──先生はそう説いた。
あ、そうか、社長の懐中電灯に。藤尾社長の経営判断の役に立つことをやればいいんだというふうに思えたのが、すごく良かったですね。
経理という仕事に、意味が宿った瞬間だった。数字を整えることは、誰かの暗い夜道を照らすことでもある。金子は、暗い夜を憂うのではなく自らが灯りになる、という古くからの教えを重ね、その覚悟が入社初日に生まれていたことに驚きを隠さなかった。
27歳の迷い ── 「今の自分がたとえ未熟であっても」
『致知』を後世に伝えるために生まれてきた。入社当初にそう確信したはずの藤尾さんにも、足がすくむ時期が訪れる。入社から 5 年ほどが経った、27 歳の頃だった。
だんだんやってるとすごい仕事をしてるんだなと、大きすぎて遠大すぎてと言いますか、ちょっと自分には難しいなと思っていた。
現在『致知』の編集長を務める弟さんは、まだ入社していなかった。自分が背負っていくのだろうか。20 代の肩には、あまりに重かった。
そんなとき、致知出版社の新春特別講演会の壇上に、文学博士でシスターの鈴木秀子氏が立った。『致知』で長く連載を持つ書き手である。1,000 名を超える読者を前に、鈴木氏はこう語ったという。多くの教えは 3 代で途絶える。けれど、ここにいる皆さんには、人間として最も大切な『致知』の教えを、3 代 4 代と伝え続けてほしい。それが必ず日本を支える、と。
会場が、大きな拍手に包まれた。その光景を、藤尾さんは舞台の袖から見ていた。
その光景を横から見ていた時に、私も鳥肌が立ったんですが。
読者が大切な教えを、子や孫へと手渡していく。そのための道具が『致知』なのだ。ならば『致知』は、当たり前のように存在し続けなければならない。
今の自分がたとえ未熟であっても、やるしかないんだと。
この日、藤尾さんの人生の目標が定まった。創刊 100 周年、200 年、300 年。そのための土台を、人生をかけてつくる。
多分命があって見届けられるのは100周年までです。95歳に私もなるんですけれども。
創刊 100 周年の日、愛読者と社員と著者が集い、「日本に『致知』があったから、日本は心の豊かさを取り戻したね」と喜び合う。その光景を見届けることが、私の人生の夢であり使命だ、と藤尾さんは言い切った。
震災の直後に ── 20代30代限定、3,000円の講演会
自分と同じ若い世代にこそ、人間学を届けたい。これから子育てに携わる世代に人間学が広まれば、日本の未来は大丈夫だ。入社当初からの思いだった。
ただ、本業は経理である。きっかけは、ゴールデンウィークの社内課題だった。会社で新しく取り組むべき事業を提案せよ、という課題に、藤尾さんは本題とは別に、やりたいことを箇条書きで添えた。その一つが、「藤尾社長の講演会を、20 代 30 代限定・3,000 円で開きたい」だった。
当時の致知出版社のイベントは、著名な講師を招き、懇親会まで付いて、参加費は 1 万円ほどかかるのが通例だった。
そうすると自分の友達を呼びたくても呼べないんですよね。
先輩に背中を押され、企画書をつくって役員会に提案した。答えは「やっていい」。第 1 回は 2011 年 3 月 26 日。3 月初めの時点で、申し込みは 700 名を超えていた。
そこに、東日本大震災が起きた。キャンセルの電話が相次ぎ、節電も続くなかで、開催していいのか迷いが広がった。それでも、社内から声が上がった。こういう時だからこそ、生かされていることの意味を発信する使命があるのではないか、と。講演会は予定どおり開かれた。
震災で社員を亡くし、今年は行けないと連絡をくれた参加予定者もいた。その人のために、翌 2012 年 5 月に第 2 回を企画した。以降は毎回 1,000 名を超え、第 2 回は 1,200 名、第 3 回は大阪で開催された。年長の読者が若い部下を連れて、一緒に受講する光景も生まれた。
若い人は、活字から離れたのではないか。金子の問いに、藤尾さんはきっぱりと答えた。
心の糧は求めていると思います。
父から母へ ── 「心の栄養は言葉」
30 代半ばで母親になった。すると今度は、自分と同じお母さんたちに『致知』を届けたい、という思いが芽生えた。出産を機に経理の現場を離れ、産後は『致知』を広める広報活動に携わった。
広報チームのメンバーは、全員がママだった。編集部出身の先輩が、こんなアイデアを口にした。「『致知(ちち)』から『母(はは)』誕生。別冊で『母』をつくったら、ダジャレみたいで面白いと思ってたんだよね」。
チームは大いに盛り上がり、藤尾さんは再び企画書を書いて提案した。返ってきたのは、思いがけない言葉だった。
一番広めたい人が、編集長をやりなさいということになって。
編集経験ゼロの経理担当が、編集長になった。
『致知』は、表紙に年配の経営者の顔写真が並ぶ。ビジネス誌に見えて、お母さんたちは自分とは関係ない雑誌だと思ってしまう。藤尾さん自身、保育園のママ友に『致知』を手渡せなかった。鞄から出せなかったのだ。
けれど中身は違う。人間学とは、過去にも未来にもたった一つしかないこの尊い命をどう生きるか、を学ぶもの。自分を育てるための学びは、そのまま子育てにも生きる。そこで『母』は表紙の「顔つき」を変え、半分を『致知』のバックナンバーから、半分を母親向けの新しい対談で構成した。
子供という命とどう向き合って生きるのかっていう、その子育てのやり方の情報は世の中にたくさんあるんですけれども、命とどう向き合うかっていう、あり方の情報って意外とほとんどないと思うんですよね。
2019 年の創刊から年に 1 冊。今年で 8 冊目になった。刊行を始めると、長年の愛読者の中から、子育てにずっと『致知』を生かしてきたというお母さんの声が届いた。ようやく致知出版社が私たちの方を向いてくれた、と。『母』をきっかけに、定期購読を始める母親も増えている。
藤尾さんの父・藤尾秀昭氏は、社員にこう教えているという。心の栄養は、言葉である。体の栄養は目に見えやすい。けれど心にも栄養が要る。心はすぐに栄養失調になり、雑草が生え、干からびてしまう。
お母さんたちの心が栄養で満たされていれば、お子さんたちにかける言葉も温かい言葉とか優しい言葉、豊かな言葉に変わっていきますし。
2 年後、『致知』は創刊 50 周年を迎える。最後に抱負を問われ、藤尾さんは一つのキーワードを挙げた。
より良い生き方をしたいと思ったなら、『致知』を読めばいいんだって、誰もが知っている。そういう月刊誌になっていきたい。
VOICES
名言
私もいつか誰かを輝かせることができるような人間になりたい。
今の自分がたとえ未熟であっても、やるしかないんだと。
お母さんたちの心が栄養で満たされていれば、お子さんたちにかける言葉も温かい言葉とか優しい言葉、豊かな言葉に変わっていきますし。
より良い生き方をしたいと思ったなら、『致知』を読めばいいんだって、誰もが知っている。そういう月刊誌になっていきたい。
VOICE BEHIND THE VOICE
藤尾さんの原音
対話の中で、ふと口にした言葉。
編集部が聴き取った、その人の核にある原音。
照らす人になる
あ、そうか、社長の懐中電灯に。藤尾社長の経営判断の役に立つことをやればいいんだというふうに思えたのが、すごく良かったですね。
──経理の仕事を、伝票と数字の世界だと思う人は多い。入社初日の藤尾さんに手渡されたのは、その仕事のもう一つの意味だった。孤独な決断を下す人の足元を、照らすこと。役割に意味が与えられたとき、人は迷わなくなる。後に彼女が、若い世代の講演会を企み、母親のための別冊を生み出していくのも、同じ構図に見える。いつも「誰の足元を照らすのか」から仕事を始めている。照らされる側から、照らす側へ。『小さな人生論』で出会った「人は人によって輝く」という一行を、藤尾さんは入社のその日から生き始めていた。
天からの封書を、開けた人
私の天からの封書は、この雑誌『致知』と致知出版社という会社を守り続けていくことだ。
──多くの人は、自分の封書を開けないまま一生を終える。藤尾さんは 23 歳で、それを開けた。ただし、開けたから迷わなかったわけではない。27 歳で、父の仕事の大きさに立ちすくんでいる。それでも彼女は「未熟でも、やるしかない」と自分に言い聞かせ、使命の時間軸をむしろ延ばした。創刊 100 周年、自分が 95 歳になる日まで。使命とは、一度見つけて終わる答えではなく、迷うたびに開け直す封書なのかもしれない。
届けたい人が、つくる
一番広めたい人が、編集長をやりなさいということになって。
──編集経験のない人間に編集長を任せる。普通の出版社なら、まず考えない人事だ。けれど『母』に必要だったのは、編集の技術より、保育園のママ友に『致知』を手渡せなかった痛みを知っていることだった。届けたい相手の気持ちが分かる人が、届け方を設計する。「心の栄養は言葉」という父の教えは、こうして娘の手で、表紙の顔つきから変えて、母親たちのもとへ運ばれていった。
CLOSING
あの日の、一言
番組の締めくくり、金子は藤尾さんに改めて問いかけた。今までの人生で、一番影響を受けた言葉は何ですか。
私の人生で一番大きな影響を受けた言葉は、「人はみな、天から一通の封書をもらって生まれてくる。その封書を開けると、あなたはこういう生き方をしたらいいと書いてある。しかし、その封書を開けないまま死んでいく人が多い」という言葉です。
これは、『致知』に大変ゆかりの深い、教育者であり哲学者である森信三先生の言葉です。入社当初に父の講演を聞いた時に、父がこの言葉を紹介していました。
私はこの言葉を聞いて、本当に雷に打たれたような大きな衝撃を受けました。学生時代は夢がなくて、何のために自分は生まれてきたんだろうと、心に迷いを感じながら生きてきた自分が、致知出版社で仕事を始めた時に、ちょうどこの言葉に出会ったんです。
私にも天からの封書があったんだ。私の天からの封書は、この雑誌『致知』と、致知出版社という会社を守り続けていくことだ。そう思えたことが、本当に私の人生の大きな転機になりました。23 歳の時に聞かせてもらった言葉で、ずっと今も大事にしている言葉です。
同じ森信三先生は、「人間は一生のうち逢うべき人には必ず逢える。しかも一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に」という言葉も残されています。言葉との出会いも、同じだと思うんです。前は響かなかったけれど、今は響く。このタイミングで出会えたからよかった。ですから『致知』は、言葉をキャッチするように読んでいただきたいなと思っています。